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不破は『富貴菜館』に入った。
歌舞伎町のブライトネスビル内にある中華料理店だ。赤い絨毯を踏みしめて出入口を通り抜けると、なじみの店員が一礼して不破を迎えた。
早足で店の奥に向かった。扉をノックして入る。扉の向こう側は広々とした個室で、十人掛けの円卓がふたつ置かれてある。今日はブライトネスの副社長である王智文の五十九歳の誕生日だった。日曜とあって一族の多くが顔を見せていた。若くして一族の当主となった王心賢や、近藤の遺児の雄也も出席していた。
不破は室内を見回した。出席者のなかに歩美の姿はなく、寂しさと安堵の両方を覚えた。彼女とは近藤の七回忌の法要以来、ずっと会っていなかった。
「こっちだ、二代目」
主役の王智文が不破を手招きした。左隣の椅子を叩く。不破は王智文の妻や娘たちに挨拶をしてから座った。
「遅れてすみません」
「なにを言ってやがる。東日本の隅々まで旅して回ってきたんだろう。くたくただろうに。ありがとよ」
「兄さんの誕生日は盃事や挨拶回りよりも大事だ」
不破は王智文にプレゼントを渡した。ピザのように平たい形の包みで赤いリボンがかけられてある。
「うお、これは……」
王智文が包みを開けた。なかにはサイン色紙が入っていた。今年の『K-1グランプリ』で劇的な優勝を飾ったアンディ・フグのものだ。格闘技ファンである王智文は目を輝かせた。
「ありがてえ。いつもすまねえな」
王智文はしばらくサインに見とれていたかと思うと、彼はジャケットの内ポケットに手を入れた。包装紙に包まれた小箱を取り出してテーブルに置いた。
「おれからもプレゼントがある。二代目襲名のお祝いだよ。開けてみろよ」
不破は包装紙を剥がした。
上品な化粧箱が現れ、なかを開いてみると、金無垢の腕時計が収まっていた。不破は目を見張った。
「これは父さんの」
「王大偉がずっと使ってたやつだな。時計屋に分解掃除をさせて、ベルトは新しいのに替えた。スイス製の高級時計だからよ、今でも充分使えるみたいだ」
「大事な形見じゃないか。いいのかい?」
「構わねえよ。手巻き式ってのはどうも使い慣れなくてな。正直なところ引き出しのなかでずっと眠りっぱなしだった。ズボラな性格のおれなんかより、お前が持ってたほうがいいんじゃねえかと思ってな」
「いただくよ。ありがたく使わせてもらう」
不破は形見の腕時計のリューズを巻いた。
腕時計の秒針が動き出して時を刻みだした。腕に巻いていたロイヤルオークを外し、王大偉の形見を身につけた。
不破は腕時計に見とれた。作られたのはおそらく戦前で、もはや骨董品というべき代物だ。カレンダーやストップウォッチ機能が備わっているわけではなく、宝石があしらわれているわけでもない。現在では素朴とさえいえるシンプルなデザインだ。
王大偉は他にも高級時計を何本も所有していたが、もっぱらこの腕時計を愛用していた。こうしてつけてみると、王大偉の息子にふさわしい男になれた気がする。
「社長、いいのか? おれがもらっても」
不破は隣の王心賢に尋ねた。王一族の若き当主の彼は虚をつかれたような表情を見せた。
「私も手巻き式の時計など使いこなせないですし、愛用してくれる人物が持つのが一番ではないでしょうか。二代目になられた叔父さんこそふさわしい」
「あれから警察は会社に嫌がらせをしてこないか?」
不破は声を落とした。王心賢がうなずく。
「なんとかしのいでます。うちの営業が数字欲しさにホールの予約を受けつけてしまったのだと言い張りました。こっちの都合でキャンセルなんかしたら、どれほどの損害賠償を吹っかけられるかわかったものではない。そっちが払ってくれるのかと新宿署に詰め寄ったら、マル暴刑事たちから風営法でも消防法でもなんでも使って商売できねえようにしてやると脅されましたよ」
「最近じゃあれほど派手な盃事はどこもやれない。全国の親分衆もたまげていた。新宿署はメンツを潰されたと思ってるんだろう。泥をかぶってくれてすまない」
「礼を言わなければならないのはこちらのほうです。ホールの使用料を始めとして、音響設備のリースからケータリングサービスまで、すべてうちの会社を使ってくれた。集まった親分さんたちにしても、二次会三次会とうちの店に大金を落としてくださった。正直助かりました」
「ヤクザなんかに頭を下げるな。おれは損得勘定で動く悪党だぞ。苦境のブライトネスの足元を見ただけに過ぎない。札束を積めばヤクザ嫌いのお前でも懐柔できると踏んだだけだ」
「憎まれ口を叩いてもダメですよ。叔父さんがいなかったら、ブライトネスや王英輝はどうなっていたことか。本当に感謝しています」
王心賢は不破に警告されても頭を深々と下げた。頑固一徹な性格は変わらない。
「私も王一族の人間です。かつてはなにもわからぬまま青臭い口を叩いてしまいました。城を死守するためならなんだってやってみせます。その覚悟もできている」
王心賢は黒髪を後ろになでつけていた。頭髪にはツヤがあり、体格もガッシリとしている。王心賢は三十代に入ってますます精力的に見えた。
彼の父親の王英輝は公家のような上品な顔立ちをしていたが、息子のほうはあまり父親に似ず、スポーツに熱心だったためか野性味を感じさせる容貌をしている。がっしりとした顎と太い眉が特徴的だ。
とはいえ、バブル崩壊で会社は多額の負債を背負い、この青年社長にのしかかる重圧は相当なものと察せられた。耳の後ろに十円玉ほどのハゲができている。
先代社長の王英輝は不動産事業にのめりこみすぎた。ブライトネスは歓楽街に足を運ぶ人々のニーズに応えて成長してきた。しかし、土地転がしがもたらす莫大な利益に魅了され、本来の商いをおろそかにし過ぎたのだ。
五年前、日本経済のバブルは弾け、株価の下落は歯止めがかからなくなった。銀行は貸付資金の回収が困難となり不良債権を抱え、倒産企業がじわじわと増えていった。
ブライトネスもバブル崩壊のあおりを食った企業のひとつだ。山梨の開発業者と組んでゴルフ場の用地買収を進めた。しかし、開発業者が銀行から融資を受けられず、ゴルフ場建設に必要な預託金も集められずに倒産。事業は暗礁に乗り上げてしまった。重要な取引先だった財閥系不動産も巨額の負債を抱え、マンションやリゾートといった土地開発のプロジェクトは次々に停止された。
ブライトネスは約百四十億円の負債を抱えた。当時役員になったばかりの王心賢が、土地神話の終焉を進言していなければ、ブライトネスはさらなる大火傷を負い、債務超過に陥って倒産は免れなかっただろう。
拡大路線を爆走していたブライトネスは一転して、他企業と同じくリストラの時代に入った。大阪や名古屋の繁華街に所有していたビルの売却を迫られ、その他にも府中のボウリング場や伊豆のリゾートホテル、街道沿いのファミレス数店を手放す羽目になった。
本社には西新宿の超高層ビルのワンフロアを借り切り、大卒の若手社員を大勢働かせていたが、四年前に同じ西新宿のオフィスビルに移転した。その広さは往時の半分ほどで、それだけ社員数を大幅削減したことになる。王英輝は会社を大きく傾かせた責任を取り、代表取締役社長を辞任して相談役に退いた。
王心賢は若くしてブライトネスグループの三代目となった。だが、その船出は厳しいもので、バブルの狂乱の尻ぬぐいに奔走させられた。
その後始末は未だに続いており、巨額の負債の返済に追われている。バブル期には社長専用車や役員車は、すべてジャガーやベンツといった高級外車だった。それらをすべて売り払い、王心賢は国産の中古車を愛用した。
王英輝とその息子は、会社の倒産を回避するために私財も処分した。王大偉の居城でもあった富久町の豪邸、それに軽井沢や館山にあった別荘、ヨットや数十本のビンテージワインをすべて売り払った。
王心賢は徹底した経費削減をするために、まずは隗より始めなければならないと考えた。社長就任時に自分の月収を部長クラスと同程度に設定。腕には金色に輝くロレックス・デイトジャストが輝いているが、おそらく偽ブランドの安物と思われた。所有していた高級腕時計もすべて業者に買い取らせたからだ。
ブライトネスは不動産事業から撤退すると同時に、原点回帰としてサービス産業に力を入れ、パチンコホールやゲームセンターへの設備投資を積極的に行った。五年後の現在、それがようやく黒字化という形で実を結びつつある。
王心賢はかつてヤクザとあからさまに手を組んで地上げに励む父に逆らい、不破に対しても会社に来るのは控えてくれと懇願してきたものだ。
今では世間の荒波に揉まれ、冷静に損得勘定のできるタフな実業家になった。売上のためならヤクザの盃事にも場所を貸して多額の利益を得る。その一方で警察や政界ともコネを持つことで巧みに難を逃れていた。
不破は隣の円卓を見やった。
「あいつらもいることだ。新宿署の木っ端ぐらいは黙らせられるだろう」
そこには刑事の尾崎と政治家秘書の喜田村の姿があった。身内のみの誕生会にもかかわらず、ふたりは当然のような顔をして飲み食いに励んでいる。
尾崎は薄かった頭髪をきれいに剃り、頭を坊さんのようにスキンヘッドにしていた。昨年から新宿署生活安全課の課長に就任し、初めて会ったときよりも精力的に見えた。生活安全課課長という立場を利用し、パチンコ店や性風俗店から袖の下をたらふく受け取っているようで、中野に高級マンションを購入していた。食の細そうな小男にもかかわらず、好物の北京ダックを次々に平らげている。
喜田村は杉若善一の第一秘書だ。杉若は父親の強固な地盤を受け継ぎ、現在では与党自政党の大派閥の領袖となった。選挙での無類の強さと毛並みのよさから、次代の総理と期待されるほどだ。
杉若の腹心である喜田村は、父親の代から仕えていた大番頭で、総勢十名を超える杉若軍団といわれる秘書たちの筆頭格だ。彼のおもな仕事は、中央政界での杉若の政治活動の補佐であり、資金集めとその管理にあった。
杉若家は王大偉のころから三代にわたって支援されており、ブライトネスはバブル崩壊で経営が傾いてからも、多額の献金や政治資金パーティ券の購入を続けていた。杉若の政治団体である『雄飛政策研究所』の会計責任者は、ブライトネスの常務だった藪が就いている。
杉若がヘタを打って失脚でもしないかぎり、彼の有力なタニマチであるブライトネスに新宿署が簡単に手出しはできない。かりにブライトネスへの内偵を進めているとしても、その情報は尾崎を通じて王心賢へと流れる仕組みとなっている。
ブライトネスは長年にわたって彼らに資金を提供してきた。さんざん飲み食いもさせ、ときには女もあてがった。尾崎や杉若家もブライトネスの経営が思わしくないと知りながら、なに食わぬ顔をしてタカり続けてきたのだ。それぐらいの働きはしてもらわなければ困る。
王心賢が不破に顔を近づけた。お祝いの催しにふさわしい笑みを顔に貼りつかせたまま、冷徹なビジネスマンらしく目つきが鋭くなる。
「会社は立ち直りつつあります。弱点があるとすれば、父のことぐらいだ。あの人があんなに脆かったなんて」
「またバカラか」
「マンション麻雀ですよ。たった半月で三百万円も溶かした」
「本当か?」
不破は顔を強張らせた。兄の誕生会だというのを忘れそうになる。
「私のところに取り立ての電話がかかってきましてね。ひどく訛った日本語で『耳揃えて払え』と。中国人がやってる賭場のようでした」
「当の本人はなんと言ってた」
王心賢は首を横に振った。
「相変わらずです。たかだか三百万円なんて鼻紙みたいなもんだと。何十億のカネを動かしてきた時代が忘れられないようで。事業への未練もたらたらです。あの人に出資する物好きなんて、もうどこにもいないというのに。母やあちらの親族の信頼も完全に失って、あれだけ大勢いた友人にもあらかた去られてしまった。叔父さんだって父にカネを貸そうとは思わないでしょう」
不破はうなずくしかなかった。
「今の兄さんに必要なのはカネじゃなく治療だ。ギャンブル依存症の」
王英輝は六十一歳だ。実業家としてはまだまだこれからの年齢で、本人も暇と体力を持て余している。社長時代はろくに休むことなく、それこそ栄養ドリンクのCMのごとく二十四時間戦ってきた。
ブライトネスの相談役という閑職に退いてからは、ほとんど会社に姿を現してはいない。会社を大きく傾かせた戦犯として居場所をなくした。だが、自尊心を傷つけられたまま、じっと引っ込んでいられる性格でもない。
貧すれば鈍するものだ。王英輝の夫婦仲は極めて悪く、会社を潰しかけて妻にも去られた。住むところを失った彼は、西新宿の古い賃貸マンションで暮らしている。バブルの真っ最中でも、王心賢と経営方針をめぐって、しばしば対立したこともあり、息子との関係も良好とは言い難い。
失った財産と名誉を取り戻そうと、王英輝は再び事業を興すために金策に奔走した。だが、かつてはじゃぶじゃぶと気前よく貸してくれた金融機関は態度を一変させて門前払いを食らわせ、不景気にあえぐ友人たちも自分の城を守るのに必死だった。
焦った王英輝は愚かな方法を選んだ。歌舞伎町の賭場で運転資金を獲得しようとしたのだ。半年前、バカラ賭博に挑んでビギナーズラックで勝ち、それから坂を転がり落ちるように負け続け、最終的には五百万円の借金を抱える羽目になった。
バカラ賭博の胴元は歌舞伎町にも進出した関西の華岡組系の組織で、王英輝からツケを回収するため、関西弁を話すガラの悪い若い衆がブライトネス本社に乗りこんできたという。
王英輝自身は素寒貧であっても、かつては大実業家として名を売り、親族は今でも新宿を代表する名家として知られている。胴元としても、こんなネギを背負ったカモをみすみす逃すはずはなかった。
不破が解決のために胴元と話をつけた。兄がこさえたツケに加えて、さらに二百万円の迷惑料をプラスし、すべての賭場で王英輝を出入禁止にしてくれと頼んだ。胴元は難しい顔をしてゴネてみせたが、歌舞伎町の顔役に恩を売っておくのは悪くないと判断したようで、王英輝の来場を約束通り禁じてくれた。日頃からのつきあいが功を奏したのだ。
歌舞伎町の親分たちは、暴力団対策法の施行に合わせ、代紋の垣根を超えて定期的な会合を持つようになった。それを提案したのは他ならぬ不破だった。
有事のさいにはトップ同士で緊急で連絡し合えるホットラインを結び、下の人間が起こした揉め事や、組同士が一触即発となった場合は、すぐに親分衆が間に入って仲裁する。
歌舞伎町は欲望を満たす繁華街として、まるで誘蛾灯のように大勢の人間を寄せ集めているが、その一方で暴力的で危険な街というイメージがさらに強まった。都庁が西新宿に移設して来た現在、警視庁は同町を浄化するため、裏社会の人間を追放すべく虎視眈々と狙っているという。
不破はその定例会の場において、親分たちに王英輝を賭場に入れないよう頼んで回った。岡谷組が属する上部団体の義光一家にも要請した。その甲斐もあって、王英輝は都内の賭場に出入りできなくなった。
不破は王心賢に訊いた。彼の顔から笑みが消えていた。
「どうするつもりだ」
「自腹でなんとかします。会社のカネで闇賭博のツケなんか払うわけにいきませんから。貯めていた子供の教育資金を取り崩すしかありません。あんな風になっても、父には変わりませんから」
「嫁さんは納得するのか」
王心賢は顔をうつむかせた。
「今は辛抱してもらうしかありません。あいつはわかってくれるはずです」