昭和六十二年
8
岡谷健吉の邸宅は新宿一丁目にあった。
新宿御苑の傍に位置し、昔ながらの個人商店やマンション、それに事務所が入ったビルが立ち並び、夜中は二丁目や三丁目と違って人気も少なくなるエリアだ。
岡谷邸は路地の十字路の角地にあった。もともとは倒産した呉服屋から借金のカタに取り上げた物件で、約四十坪の四階建ての鉄筋ビルだった。常時四、五人の若い衆や運転手が詰めており、どの窓も煌々と灯りがついている。
ビルの前には巨大な高級外車が停まっていた。ロールスロイス・シルバースピリットで、鞭馬会の村上建策の愛車だった。商売仇の首領自らが乗りこんできたのだ。
不破は運転手の土居に命じ、ロールスの後ろに停車させた。不破がベンツを降りると、ロールスの運転手も降車し、上目遣いでお辞儀をした。威嚇を試みる犬みたいな目つきだ。
“教育”してやりたい誘惑に駆られながらも、正面玄関の呼び鈴を押し、玄関ドアの上の防犯カメラを睨んだ。早くドアを開けるように若い衆に目で命じる。
「兄貴、お疲れさまですっ」
若い衆がドアを開けて行動服姿で出迎えた。不破は入室しながら親指を上に向けて訊いた。
「岡谷と本部長は二階か」
訊くまでもなかった。二階には来客用の応接室や執行部用の会議室などがある。その応接室からひどいドラ声が耳に届いた。声の主は村上だ。
不破は階段を早足で駆け上がり、二階の応接室の扉をノックしながら名乗った。
「入れ」
室内から岡谷の声がした。
不破が扉を開けると、新宿の二大巨頭が顔を突き合わせていた。岡谷組側は岡谷と南場、鞭馬会側は村上と理事長の丹下三千雄がいた。丹下は鞭馬会のナンバー2だ。
村上は岡谷と同じく大正三年生まれで、もう古希を過ぎたというのに、雄牛のような体格を維持していた。本麻の上品な着物を着こなしているが、赤いマントをチラつかされた闘牛のように怒りを全身から噴出させている。
応接セットのテーブルには、ビニール製の小袋がいくつも散らばっていた。小袋のなかには透明の結晶が入っている。
村上が小袋を掴むと、鬼の形相で不破に投げつけてきた。不破の顔に小袋が当たる。
「隆次! てめえが一枚噛んでんのか」
不破は床に落ちた小袋を拾い上げた。なかに入っているのは一グラム分の覚せい剤だ。
「村上会長、あんたこそこんなもんを岡谷の家に持ち込むとはどういうつもりですか」
「聞かれたことに答えやがれ!」
今度はタバコの箱が顔めがけて飛んできた。不破は頭を動かして箱をかわす。
不破は心のなかで舌打ちした。村上は苛烈な性格で知られており、口よりも先に拳を繰り出す男だった。実話誌では“イケイケの武闘派”などと持ち上げられているが、単に粗暴でキレやすいだけの話だった。子分への当たりもきつく、丹下の小指は左右どちらもない。
岡谷が手を上げて村上をなだめた。
「まあ待ってくれ。不破は事情もわからねえまま、うちへすっ飛んできたんだ。順序だてて説明してやらなきゃラチが明かねえ」
丹下が南場を指さした。
「すでに本部長さんがいらっしゃるのに、なんだって舎弟の若頭補佐を呼びつける必要があるんです? それじゃ本部長さんはまるでカカシじゃねえですか」
「おい若いの、おれの子をカカシだと。親の勢い借りて調子に乗るんじゃねえよ」
岡谷が丹下を睨んだ。
声量こそ大きくはない。しかし、死神のような寒々しい殺気がこもっていた。糖尿病を患った岡谷の身体は痩せ細ってはいるが、老侠客としての鋭さを維持していた。相手の言葉尻をすかさず捉える掛け合いのうまさも健在だ。村上らが言葉を詰まらせる。
「すみません、言い過ぎました」
丹下はしぶしぶ南場に詫びを入れた。岡谷が言った。
「不破を呼び出したのは他でもねえ。近藤や本部長は外交や雑務に追われっぱなしで、うちの縄張りをもっとも熟知しているのはこいつだからだ」
不破は応接セットの下座の端に腰かけた。村上が暗い目つきで不破に問いかける。
「だったら、単刀直入に訊くぞ。こいついじってるのはてめえか」
「冗談じゃありませんよ。クスリやトルエンは言うまでもなくあんたらのシノギだ。自分たちの商品チラつかせて、岡谷組に因縁つけようってんですか」
「うちの商品じゃねえから、こうして訊いてんだろうが!」
村上がテーブル上の小袋を握りしめた。
鞭馬会のおもな収入源は薬物とトルエンだ。外道のシノギなどと蔑まれてはいるものの、莫大な利益をもたらすため、ヤクザ社会の重要な資金源となっている。
歌舞伎町の住人のなかには、日々の重労働の疲労をごまかすために、同会の覚せい剤に依存している者も少なくない。鞭馬会の上部団体の錦城連合も薬物の取り扱いを禁じているはずだが、鞭馬会の上納金はよほど多額であるらしく、シノギを黙認しているのが実情だ。
丹下が前かがみになって説明しだした。今度は慎重な口調だ。
「うちの上得意が急に購入をしぶりだしやがった。ピンサロの店長に街金の社長、覚せい剤の虜になった売女どもだ。覚せい剤を神様みたいに崇めてる連中だってのに、クスリを断つつもりだと殊勝なセリフをほざきやがる。相変わらず瞳孔は開きっぱなしで、水をがぶ飲みしながらな」
「誰かが覚せい剤を扱って、そちらから上得意を引き抜いているというわけですか。かりにそうだったとして、うちを怪しむワケを教えてもらえませんか」
歌舞伎町は特異な街だ。岡谷組が利権の多くを掌握しているが、関西の華岡組系や関東の天仁会系、それに錦城連合系と様々な組織が食いこんでいる。
そのうちのどこかが覚せい剤の密売に関与しているのだろうが、鞭馬会のトップたちが直々に乗りこんできたからには、岡谷組が触っているという確証を持っているに違いなかった。
丹下が眉間にシワを寄せて不破を睨んだ。とぼけやがってと言いたげだ。
「上得意のひとりを締め上げた。覚せい剤漬けのセックスで女を落とすリチャードって名のジゴロだよ。クスリがなきゃ商売にならねえのに、警察の目があるからとかなんとか抜かして、うちからの仕入れを拒みやがった。なにかあると睨んで、野郎の住処を漁ったら、小袋と注射器がいくつも見つかった」
リチャードの名前は知っていた。覚せい剤を使って数十人の家出少女を風呂に沈めたと豪語している茨城県出身のハーフ顔の日本人だ。
不破が表情を消して尋ねた。
「リチャードは結局どこから買っていたというんです?」
「大久保あたりに住んでるパキスタン人だってな。やつらの面倒見てるのはそちらさんだろう」
「そうでしたか」
村上が掌をテーブルに叩きつけた。けたたましい音が鳴る。
「他人事みてえに答えやがって。不良外人使って陰で糸引いてんだろうが」
パキスタン人やバングラディシュ人が多数来日するようになったのは最近のことだ。日本とそれらの国とは短期滞在の査証免除協定が結ばれており、円高で好景気に沸くジパングに出稼ぎ目的でやって来ている。職場からケツを割って逃げた者や、オーバーステイになって行き場のない連中が新宿に流れ込んだ。
岡谷組が外国人に売らせているのは変造テレホンカードだ。若手組員の間で広まった新手のシノギで、使用済みのテレホンカードに元のデータを書き込んだシールを貼り、不正に復活させた代物だという。長距離電話や伝言ダイヤルの利用者の間で飛ぶように売れている。
末端の外国人の売人もヒット商品を扱えているのだ。それなりに稼げているはずだが、人間の欲にはキリなどないものだ。
岡谷が不破に声をかけた。
「至急、調査しろ。そのパキスタン人はもちろんだが、捌かせてる野郎の正体も割り出せ」
「承知しました」
不破はうなずいてみせた。村上がすかさず吠える。
「勝手に話進めんじゃねえ。この落とし前、どうつけるつもりだ。てめえらはうちの米櫃に手突っ込んだんだぞ」
「落とし前もなにも。まだなんとも言えませんよ。パキスタン人をそそのかして覚せい剤まで売らせたのは、そちらの若い衆かもしれないんですよ。クスリでヘタ打った極道は、鞭馬会がダントツで多いんです」
「なんだと、この小僧……」
岡谷が鼻で笑って村上を煽る。
「薬局なんぞやってると大変だよな。商品を食らうバカに、横流しするバカ。お前さん、これまで子分に何本小指ちぎらせた」
村上の顔から血の気が引いた。彼はゆっくりと立ち上がる。
この老親分が怒声や拳骨を浴びせるのは日常茶飯事だ。だが、本当に激怒したときは、顔から表情がなくなり、声量も急に小さくなるという。全員がとっさに身構えた。
「このままじゃ水掛け論だ。その調査とやら、てめえに任せようじゃねえか」
村上が掠れた声で言った。応接室のドアを静かに開けて出て行く。
丹下が慌てて村上の後を追うが、去りぎわに岡谷組の三人たちを睨みつけていった。うちの親分を本気で激怒させやがってと恨めし気だ。村上たちは階段を下りて去っていく。
岡谷が頬を指で掻いた。
「言い過ぎちまったかな。脳の血管が切れんじゃねえかとハラハラしたぜ」
村上はクスリで成り上がったヤクザだ。その一方でそのことに強い劣等感を抱いている。
彼は錦城連合の直参にまでのし上がったが、ヤクザ社会でも覚せい剤の密売は外道のシノギとして忌み嫌われている。義理事でどれだけ大金を包んで、トップや最高幹部にご機嫌取りをしようと、しょせんは麻薬の密売人と蔑まれ、村上は執行部の仲間入りを果たせずにいる。
岡谷組はクスリを扱わずとも食っていけた。歌舞伎町の利権だけでも多額の収益を手にし、この歓楽街が巨大化していくたびに、岡谷組もまた大きくなっていった。
村上にしてみれば、濡れ手で粟の既得権者に見えただろう。その頭目である岡谷から劣等感を刺激されたのだ。村上にはさぞ屈辱だったことだろう。
「どっちみち、クスリに触るやつは放っておけねえ。売人の背後にいる問屋も潰せ。どこの代紋だろうと引くんじゃねえぞ」
岡谷が表情を引き締めた。その横顔は怒りで強張っている。
普段こそ歌舞伎町の親分と慕われ、懐の深い寛大な侠客として名高いが、それでも暴力の信奉者であるのは変わらない。とくにクスリの売人に対しては容赦がなかった。
岡谷組でも過去に覚せい剤の密売に関与した組員が何人かいた。それが発覚した組員の末路は悲惨だ。激しいリンチに遭ったうえに小指を詰めさせられ、素っ裸で新宿から放り出される。仕置きがきつすぎて、全身打撲で死んだ者さえいる。
岡谷がそこまでクスリに対して厳しく向き合うのは、戦後に妻をヒロポン中毒で亡くしているからだと言われている。薬物で稼ぐ村上とソリが合うはずがなかった。
「すぐに叩き潰します」
岡谷組の威信を保つことは、すなわち王一族の安泰を意味する。不破は静かにソファから立ち上がった。
9
ハッサンは区役所通りの端にいた。
彼はTシャツ姿で鬼王神社の門柱にもたれている。浅黒い肌と黒々とした顎髭が特徴の大男で、このあたりのパキスタン人グループのリーダー格だ。クリケットなるスポーツの愛好家だったらしく、身長は百八十センチを超え、尻と太腿の筋肉が異様に発達していた。
ハッサンのいる歩道は、境内の木々の陰にすっぽりと覆われるため、直射日光から逃れることができた。周辺はラブホテルやスナックなどが入った雑居ビルが多く、真昼のこの時間帯は人通りが少ない。
それでもハッサンのもとには、次々と客が現れては変造テレカを購入していった。
おもな客層は夏休み中の少年少女で、伝言ダイヤルを通じてナンパや売春に励むらしく、そのためには格安で電話をかけられる変造テレカが欠かせないらしい。変造テレカを取り締まる法律がまだないため、ハッサンもウエストポーチにカネと商品をぎっしり詰めては堂々と販売していた。
若い衆にハッサンを午前中から監視させていたが、今のところ変造テレカ以外のブツを扱う様子はない。不破も若い者を三人連れてベンツで現場近くにやって来た。
ベンツを鬼王神社近くの有料駐車場に停め、不破はハッサンの働きぶりを双眼鏡を通じて見つめた。暴力沙汰にも対応できるように、使い古しのスポーツウェアに袖を通していた。
不破以外にもチームがいた。区役所通りの路肩に停めたハイエースから見張っている。
警察と違ってヤクザに証拠はいらない。ハッサンの身柄を問答無用にさらって身体に訊く方法もあった。しかし、よその組織からの指摘だけではあまりに心もとない。鞭馬会が岡谷組に偽情報を流した可能性もある。
不破は自動車電話の受話器を手に取った。谷田部の調査会社に電話をかけた。
谷田部本人が電話に出た。
〈不破社長、どうしましたか〉
「あいつはどうしてる」
〈例の台湾人ですね。あいつなら今日も新大久保の住処にしけこんでます。日月潭の女のアパートですね。雀荘で朝まで徹マンして眠りこけてるようです。毎日ぶらぶらと遊び惚けてますよ〉
谷田部の口調はいたってのどかだった。
「その女の住処に、他の人間が出入りした様子はないか?」
〈何人かはいますね。日月潭の同僚たちです。とくにあやしい人物は見つかってませんが〉
「わかった。引き続き見張っててくれ」
不破は受話器を置いた。
アイパッチを外して左瞼を苛立たしげに掻いた。車内は冷房が効いているにもかかわらず、アイパッチで蒸れたらしく左瞼が痒みを訴える。
この新宿でヤクザに仁義を切らずにクスリを扱うバカがいる。それが事実だとすれば、石国豪以外に考えられなかった。しかし、谷田部の報告によれば、彼はこれといった動きを見せてはいない。
自分がナーバスになり過ぎているのか。今の石国豪は自堕落な生き方をしただけの半病人だ。そんな敗残者にいつまで気を取られている。心のなかで疑問が渦巻いていた。
不破は助手席のアロハシャツを着た少年ヤクザの肩を叩いた。五万円の現金を握らせた。
「啓介、うまくやれ」
「うす」
少年ヤクザの啓介がベンツから降りた。苗字までは知らない。
啓介はニキビだらけのツラをした十七歳の悪ガキだ。他人に舐められまいと、頭を坊主にしたうえに剃り込みを入れている。土居と同じく戸山団地出身で、暴走族を経て岡谷組に出入りするようになった。
啓介はかつてトルエンに溺れていた。有機溶剤を吸い過ぎたせいで歯茎が痩せ、今も歯が真っ黒に溶けている。薬物や有機溶剤に手を出した者特有の口をしており、警察官とは間違っても思われない。
啓介は道端に唾を何度も吐きながらハッサンへと近づいた。不破は双眼鏡でふたりの動向を見守る。
ハッサンは営業スマイルを浮かべてウエストポーチから変造テレカの束を取り出した。啓介は首を横に振って違うと意思表示をし、あたりを見回してから腕に注射をするジェスチャーを見せた。
ハッサンの顔から笑みが消えた。彼は野良犬でも追い払うかのように手を振り、不愉快そうに口をへの字に曲げる。
啓介は食い下がってハッサンに訴えた。彼にはリチャードの名前を出すよう言い聞かせている。ハッサンが拳骨を振り上げて殴る素振りを見せるが、啓介がリチャードの紹介だと告げながら万札をチラつかせると、ハッサンはあたりを警戒するように周りをしつこく見回した。
ハッサンは啓介を鬼王神社前で待たせ、区役所通りの向かい側にある電話ボックスへと歩んだ。変造テレカを売っていたときとは違い、その表情は依然として硬いままだ。
ハッサンは電話ボックスに入り、どこかに電話をかけると、もとの場所へと戻った。啓介から五万円を受け取り、西側にあるラブホテル街のほうを指さした。現物は違う人間が持っているのだろう。啓介はハッサンにペコペコ頭を下げてラブホテル街へと向かった。
不破は座席に置いていたトランシーバーを手に取った。ハイエースの土居に連絡を取る。
「不破だ。そっちは啓介の後をつけろ」
〈了解しました〉
区役所通りで停車していたハイエースもラブホテル街へと走った。
ハッサンは現金をウエストポーチにしまい、再び鬼王神社の門柱にもたれた。
ややあってから、土居がトランシーバーを通じて状況を伝えてきた。
〈パキスタン人らしき男が自転車で啓介に近づいてきます。どうぞ〉
「身柄を押さえろ。逃がすな」
不破は土居に指示を出すとベンツを降りた。
運転手役をひとりベンツに残し、不破は若い衆ひとりを連れて歩いた。区役所通りを横断し、笑みを浮かべながらハッサンのもとへと近づく。
若い衆がハッサンに手を振った。
「ハッサン、テレカ売れてっか?」
「こんにちは。いい感じよ」
ハッサンも片言の日本語で応じた。
しかし、ハッサンは次の瞬間に背を向けて逃げようとした。勘のいい男だった。若い衆がハッサンの背中に飛びつく。
「待てコラ!」
若い衆がハッサンを押し倒そうとした。
ハッサンの身体は予想以上に強靱だった。彼は前かがみになって若い衆を背負い投げのように投げ飛ばした。若い衆が歩道のアスファルトに腰を打ちつけ、苦痛のうめき声をあげる。
不破が距離を詰めた。彼の背中に二発の正拳突きを見舞う。
腎臓を強打されたハッサンは身をくねらせて跪いた。不破は彼の頭に上段蹴りを放った。固い脛がハッサンの側頭部を捉え、身体ごと横に吹き飛ばした。ハッサンは顔面をガードレールに打ちつけた。彼は両手で頭を抱えたままうずくまる。
ハッサンのウエストポーチを奪い取り、すばやくボディチェックをした。錦パンのポケットからジャックナイフが見つかり、それも取り上げた。
運転手がベンツを不破たちの傍につけた。ハッサンの腕を取って無理やり引き起こし、ベンツの後部ドアを開け、彼を車内に放り込んだ。ハッサンに投げ飛ばされた若い衆も、腰を押さえながら助手席へと乗り込む。
不破はハッサンの隣に陣取り、運転手に新大久保の元仕切場に行くよう命じた。
「なぜ……なぜですか」
ハッサンの額は割れていた。顔面が血で真っ赤に濡れている。
不破はトランシーバーを掴んだ。商用車に乗る土居と連絡を取った。
「ハッサンの身柄を押さえた。そっちは?」
〈こっちも取っ捕まえました。覚せい剤の入った小袋と注射器を持ってました。どうぞ〉
「仕切場まで連れて来い」
ベンツは新大久保の路地を北に向かった。
不破はハッサンのウエストポーチのファスナーを開けた。なかには輪ゴムで束ねられた大量の変造テレカと現金が入っていた。
「私、テレカ真面目に売ったよ。組のために働いてます。なぜですか」
ハッサンはTシャツで血を拭いながら弁明を繰り返した。不破は彼の言葉を聞き流した。
ベンツはかつて仕切場だった更地に着いた。運転手がトラ柄の工事用フェンスをどかし、ベンツを敷地内まで進めた。間を置かずしてハイエースも更地にやって来た。ベンツの隣で停まる。
「降りろ」
不破はハッサンの首を掴んで一緒にベンツを降りた。
今日も入道雲が浮かんだ夏空が広がっていた。傍の菓子工場からチョコレートの甘い香りがする。
スポーツウェアのポケットからゴム手袋を取り出して嵌め、ハイエースのバックドアを開けた。
更地は山手線などの線路沿いに位置していた。そのためひっきりなしに電車の走行音が轟いている。工場から漏れ出る騒音もあり、音が鳴ったところで誰も気に留めない。
ハイエースには土居と若手組員が乗っていた。荷室には半袖シャツを着たパキスタン人の中年男が転がっていた。啓介に接触しようとした覚せい剤の運び屋だろう。立派な口ヒゲをたくわえているが、涙と鼻血で濡れそぼっている。
ハッサンを荷室に放り込んで、自らもまた乗りこんで内側からバックドアを閉めた。甘い香りから一転して、男たちのきつい体臭と血の臭いがする。
不破は荷室の真ん中であぐらを掻いた。後部座席にいた土居が運び屋から押収した“証拠品”を不破に渡した。黒の集金カバンで、ビニール袋入りの医療用注射器と、覚せい剤の結晶が入った小袋が複数あった。
不破は小袋をハッサンの顔に放った。
「テレカだけじゃ満足できなかったのか?」
「私、テレカしか売ってない」
「誰に吹き込まれて、どっから仕入れた」
ハッサンは瞬きを繰り返した。バケツの水をかぶったように大量の汗を掻いていた。
ハッサンは目を剥いて運び屋を指さした。
「知らない。そんな男、私知らない!」
「そうかい」
不破は土居に手を差し出した。
土居は腰のホルスターから三十八口径のリボルバーを取り出した。それを不破に渡す。ハッサンと運び屋が息を呑む。
不破はゴム手袋を嵌めた手でリボルバーを握った。銃口を運び屋に向け、無造作に引き金を引く。鼓膜が震えるほどの轟音が鳴り響き、運び屋の胸を弾丸が穿った。
運び屋は信じられないといった表情を見せた。胸の銃創を両手で触れ、前のめりになって顔から荷室の床に倒れ込んだ。血だまりが広がる。
「アリ!」
ハッサンが悲鳴を上げた。
彼は床を這って運び屋に近づこうとする。不破はリボルバーのグリップでハッサンの頬を殴りつけた。床に突っ伏すハッサンの頭髪を掴み、無理やり顔を引き起こした。彼の頬がみるみる赤く腫れあがっていく。
不破はハッサンの顎に銃口を押しつけた。怒気をこめて吠えた。
「よく見ろ! てめえが殺したんだろうが。欲ボケしたてめえのせいだ」
ハッサンがベソを掻きながら母国語でなにかを言った。意味など知るはずもないが、悲嘆に暮れているのはわかった。
「てめえもくたばれ」
不破が撃鉄を起こすと、ハッサンは苦しげに歯を食い縛った。
「ゆ、許してください! 許してください」
「てめえに覚せい剤を売らせてるのは誰だ」
「ヤ、ヤクザだと思います。サトウという名前。どこの組の人かはわからない。本当にわからない」
「どんな野郎だ」
ハッサンは観念したようにたどたどしい日本語で言葉を並べた。話し続けなければ撃たれると言わんばかりに。
サトウは痩せた中年男だという。変造テレカばかりちまちま売っても大したカネにならない。もっと高い商品を売りさばいて、大金を母国に持ち帰れとそそのかしてきた。ハッサンは打ち明けた。
「もっとだ。死にたくねえなら、もっとよく思い出すんだ」
不破はハッサンの身体を揺すった。彼は唇を舐めて続けた。
「サトウの言葉、ちょっとおかしい。岡谷組の人とアクセント違う」
「なんだと」
土居が不破に耳打ちした。
「関西系でしょうか」
不破はジャケットの内ポケットからL判の写真を取り出した。
調査員の谷田部が撮影したもので、彼から渡された日から肌身離さず持っていた。写っているのは最近の石国豪の姿だ。
「こいつか」
ハッサンに写真を見せる。彼は即座にうなずいてみせた。
「そいつです、そいつです」
不破はアイパッチを外した。歩美が宝石だと評してくれた左目で睨む。
左目は視力を失っているが、この白く濁った目を向けると相手の心を読みやすくなる。ハッサンはガキのような嘘を平気で並べ立てたが、石国豪については事実を口にしているように思えた。
不破はリボルバーを土居に渡した。スポーツウェアを脱ぎ、ゴム手袋を外した。硝煙反応が出ないように、拳銃だけでなく衣服と手袋も始末する必要があった。
「安心しろ。お前は死なない」
不破は下着姿になると、ハッサンの肩を左手で軽く叩いた。ハッサンは泣き笑いの顔になって感謝の言葉を述べた。
嘘は言っていない。手配師を通じて山奥の建設現場に売り飛ばすつもりでいた。労働者全員が「死んだほうがマシだ」と根を上げるほど過酷な場所だ。
不破は左手に持った写真を握りつぶした。