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2(承前)

 

 王心賢は六年前に結婚した。ブライトネスは不動産事業が好調で、王英輝が得意の絶頂にいた時期だ。

 結婚式は日比谷の格式高い高級ホテルで行われ、参列者は五百人以上にもなった。お色直しを何度もやり、往年の人気歌手をバンドごと呼んで歌わせて、タワーのようなウェディングケーキを用意した。

 王心賢自身は身内のみの小規模な式を望んでいたらしいが、父親がそれを許さなかった。王一族の権威を見せつける格好の場として、政治家や財界人、華僑の大物や芸能人まで招待した。

 王心賢の妻はごく普通のサラリーマン家庭で育った女性だ。夫と同じくサッカー好きで、Jリーグが発足する前から国立競技場や西が丘サッカー場に足繁く通っていた。彼女は王心賢が歌舞伎町の御曹司であるのをしばらく知らずに交際していた。新婦側の親族や友人たちは結婚式のあまりの豪華さに腰を抜かしそうになったらしい。

 王心賢には見合い話が山ほど舞い込み、大物財界人や政治家の令嬢を大勢紹介されたという。かりにそうした政略結婚を選んでいたら、父親と同じく家庭は長く持たなかったかもしれない。バブル期から一転して、ひたすら倹約の生活を送る。そんな暮らしにも慣れた楽観的な女性だった。今も王一族の女性陣と楽しそうにお喋りをしている。

 不破はビールを一口飲んで言った。

「この件はおれに預からせてくれないか。お前は一銭も払う必要はない」

「叔父さん、それは――」

「死んだ父や近藤アニキからずっと言われてきた。ブライトネスをしっかり支えろと。お前の栄光はおれの栄光でもある。一族の頭領を支えるのはおれの使命だ」

「……すみません」

 王心賢はハンカチで目元を拭った。

 ふいに涙が止まらなくなったらしく、不破に断りを入れてトイレへと駆けていった。

「社長、どうかしたんですか?」

 近藤雄也がビール瓶を手にして近づいてきた。

「いろいろあるのさ」

 彼は身内の誕生会だというのに、スーツをきっちりと着用していた。不破のグラスにビールを注ぐ。

「お前こそ、そのナリはなんだ。堅苦しいといったらありゃしない。ビジネスのパーティじゃないんだぞ」

「そうは行きません。ぼくにとっては身内である前に副社長ですから。下っ端社員がラフな格好で現れるわけにはいきません。それに今回は叔父さんを祝う会でもある。このたびは二代目襲名、おめでとうございます」

 雄也の声はやけに張りがあった。

 彼は幼いころから本の虫の学者肌で、他人と喋るさいも声は小さかった。ブライトネスに入社してからは、まるで大学の応援団員かヤクザの若い衆のような声量で話すようになった。昔は身長が高いだけのもやしっ子で、風が吹けば飛ばされそうなほど痩せていた。今は頭髪を短く刈って、身体もだいぶ厚みを増している。分厚いレンズの眼鏡をかけているが、肉体的にも精神的にもきつい労働で鍛えられたらしく、すっかり精悍な顔つきになった。

 不破は思わず見とれた。雄也の手足はモデルみたいに長い。体型が父親に似つつある。

 不破は雄也の顔を指さした。

「左目の下が赤いな。どうした」

 雄也は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「よくあることです。台をしつこく叩くチンピラがいたので、止めるようにお願いしたんですが、いきなり殴りかかられてしまって。店員総出ですぐに取り押さえましたし、店長が事務所に引っ張ってきつく叱ってくれました」

「なんだ。まだパチンコ屋なんかで働いてるのか?」

「『パチンコ屋なんか』とは聞き捨てなりませんね。今のブライトネスを支えているのは、パチンコホールやスーパー銭湯、カラオケボックスといった娯楽産業です」

「しかしだな……最高学府を出た学士様に、ギャンブル場の店員なんかさせるとは。心賢のやつ、なにを考えてるんだ?」

「僕が望んだんです。パチンコ産業は今や三十兆円産業といわれてます。その市場規模は米カジノ産業をはるかに上回り、外食産業にも匹敵する数字です。現在のブライトネスの稼ぎ頭でもある。そこで働きながら学ぶのは当然のことではないでしょうか」

 雄也はまっすぐな目で不破を見つめた。父親と同じ瞳の色をしていた。

 不破は今や歌舞伎町の王とさえ言われる存在になった。そんな叔父に対してもずけずけと物を言ってくれる。

 雄也は父親の非業の死にも負けず、その後も勉学の道を邁進した。東大への入学を果たしてからは法律家を目指し、三年次に司法試験を突破してみせたのだ。そのまま弁護士になるものと思われたが、バブル崩壊によりブライトネスの存続が危ういと知るや、王一族の会社に迷いなく飛び込んだ。

 雄也は創業者の血を引くサラブレッドであり、しかも東大出の秀才とあって、期待のホープとして迎えられた。しかし、将来の幹部候補ともなると、一般社員よりも厳しい修業が待っていた。様々な現場の最前線で経験を積まされる。

 たとえ東大卒のエリートといっても、カラオケボックスやレストランの従業員となって、調理から接客を短期間で習得しなければならない。鬼軍曹のようなパートのおばさんや高卒の店長からサービス業のイロハを叩きこまれる。それが王一族の人間が通らなければならない伝統でもある。

 雄也が勤務しているのは、西武新宿駅前のパチンコホール『アカプルコ』だった。

 同店は歌舞伎町内に出店しているだけに、ブライトネスが経営するパチンコホールのなかではトップクラスの売上を誇るが、カッとなってパチンコ台を叩きだす輩や、負けた悔しさを店員にぶつけてくるごろつき、腹いせに駐輪場に放火する常識外れな客もいれば、絶望的な借金を抱えてトイレで首をくくる迷惑な負け犬もいる。

 完全に悪意を持ってゴト行為に出る者もおり、電子機器や磁石を使って出玉を不正に得ようとする、あるいは偽造のプリペイドカードを使う不届き者も後を絶たない。

 裏ロムがひそかに仕掛けられたパチンコ台に中国人の打ち子が殺到し、多額の損失を出したこともある。前日の夜に窓から忍び込んで、パチンコ台の基盤のすり替えを行っては、翌日から客になりすました共犯者が集団で打ちに来るのだ。不良外国人のシノギの場と化している面もあった。

『アカプルコ』においても、店員が組織的な不正に気づいて外国人ゴト師を取り押さえようとしたところ、ナイフを振り回されてケガを負うなど傷害事件まで発生していた。パチンコホールの店員は客をもてなしながらも、不正を見張る監視員としての役割も果たさなければならない。つまり、負けがこんで苛立ったチンピラヤクザや、ゴト師のような犯罪者とも渡り合わなければならない。「覚えてろ」「夜道には気をつけろ」などと脅し文句を食らうのも日常茶飯事だった。

 店員側も総じて荒くれ者が多い。すっかり熱くなった迷惑客や犯罪行為に手を染めるゴト師を捕まえるには、度胸や腕力に自信のある者でなければ務まらない。

『アカプルコ』の店長は、八王子の元暴走族の総長だった中年男で、イカサマ行為を発見するやいなや事務所に連行して拳で反省を強いる武闘派だ。強面が仕切るパチンコホールは減っていき、女性客も安心して遊べる空間を売りとする店舗が増えるなか、同店は最新式の防犯カメラをいくつも設置し、不審な行為をする客が現れれば、戦闘態勢に入る元不良の店員が揃っていた。

 雄也のような東大出のインテリにはとても務まらないと見られていたが、彼は丁寧な接客を心掛けながらも、イカサマ師にも敢然と立ち向かっていき、荒くれ者たちの信頼を少しずつ勝ち取っていったのだ。

 雄也はレストランやカラオケボックスで働き、二年前から『アカプルコ』に平社員として配属されると、どのような客層がいつ、どの台を好んで遊ぶのかを把握し、徹底して顧客データの収集と分析を行った。

 それらのデータに基づき、平日の昼間は歌舞伎町の住人たちに合わせたイベントを行い、夜は西新宿で仕事を終えたサラリーマン向けのプロモーションを展開させた。週末は西武新宿線沿いに暮らす学生や若者をターゲットにした。

 また遊技台ひとつひとつの配置にもこだわり、活気がある店舗を演出しながら、適度なスペースを確保するなどして混雑を解消した。居心地のいい店づくりを心掛け、ライバル店との差をつけ、店の収益を大きく伸ばしたのだ。

 雄也はその功績が認められ、実力で副店長に昇進を果たした。もはや現場仕事に従事するのではなく、本社の幹部社員になるべきだという声も出ているほどだ。不破も同意見だった。王一族が生んだ麒麟児が、チンピラのパンチなど食らっている場合ではないのだ。

 不破は雄也の目を指さした。

「姐さ……歩美さんはこのことをどう思ってるんだ」

「とくになにも。もう子供じゃないんですから、あれこれと口を挟んでくることはありませんよ。ブライトネスに就職すると決めたときに反対されたぐらいで」

「就職に反対? 歩美さんが?」

「猛反対というわけじゃないですが、いい顔はしてくれませんでしたよ。知りませんでしたか?」

「初耳だ。どうして歩美さんが反対する」

「初耳でしたか……」

 雄也が隣の円卓を見やった。

 王心賢がトイレから戻り、何事もなかったかのように親戚たちと会話に花を咲かせている。雄也は王心賢の椅子に腰かけ、不破との距離を詰めた。

「叔父さん、どうして母と絶交したんですか。昔は毎日のように家へ来てくれたのに」

「絶交?」

 不破は咳きこんだ。あまりに突拍子のない質問をされ、ビールが気管に入りこんだ。当の雄也の表情は真剣そのもので、酒を飲み過ぎたわけではなさそうだった。

 予想外の質問をされて戸惑った。不破は咳払いをしてから雄也に問い返した。

「おれ以外は相変わらず来てるのか」

「いえ。昔は舎弟分の皆さんが自宅のように寄ってくれたものでしたけれど、南場さんも徳山さんもめっきり姿を見せなくなったし、土居さんも来なくなりました。昔は夕飯時になると、いそいそと駆けつけてくれたものです。だけど今は……」

「みんな寄らなくなっただろう。おれだけじゃなく。しかし、勘違いするなよ。近藤アニキが亡くなったから、これが縁の切れ目だとばかりに顔を見せなくなったわけじゃない。全員が歩美さんを慕っている。お前たちに幸せになってほしいからこそ、おれたちが近寄るわけにはいかない。バカな鉄砲玉にアジトと思われかねないからだ」

 不破も真顔で雄也を説き伏せた。

 彼は本心を口にしていた。近藤という岡谷組の大黒柱を失い、現在ではカタギが静かに暮らす家だ。ヤクザが表敬訪問することもなければ、護衛も常駐していない。歩美に“姐さん”でいるのを止め、ひとりの女性として生きてほしかった。

 不破は続けた。

「おれは疫病神だ。家族同然だと思っているからこそ、普段は距離を置かなければならない。ブライトネスにしてもそうだ。経営危機を脱したとわかれば、おれは心賢たちから離れるつもりだ。ヤクザとのつきあいがあると周囲に知られていいことなんかひとつもない時代だ」

 不破はビール瓶を手に取った。雄也の空いたグラスにビールを注ぐ。

 雄也は顔をうつむかせた。彼の頭脳は明晰だ。歩美と不破の間になにがあったのかを察したようだ。

「その代わり、お前たちになにかあったときは全力で守る。それがおれのできる精一杯の恩返しだ」

「すみませんでした。僕はなにも知らずに」

「誤解が解ければそれでいい。ちゃんとお前にも話しておくべきだった」

 雄也の肩を叩いてみせた。

 

 

(つづく)