9(承前)
角刈りのチンピラが『あさひ荘』に戻ってきた。ワンカップやタバコが入った買い物カゴを持って小走りに駆けてくる。髪やダボシャツが雨で濡れそぼっていた。売春宿の門柱を通り抜ける。
石国豪が狙いすましていたかのように動き出した。後部ドアを開けて車から飛び出す。
不破や南場も後に続いて外に出た。雨足は思ったよりも強く、手の甲に落ちた雨滴は冷たい。
石国豪はすばやかった。ひどい肥満体型にもかかわらず、鹿のようなかろやかな足取りで『あさひ荘』へと向かう。不破も負けじと彼の後を追った。耐水性に優れた軍用ブーツで、雨水に濡れた道や水たまりを走り抜けた。
機械の作業音のような低い音がした。不破が門柱を潜り抜けると、玄関の前でチンピラが地面に倒れていた。ぴくりとも動かない。糸の切れた操り人形のように脚が奇妙な角度に曲がっている。
引き戸の錠前には鍵が差さっていた。石国豪は引き戸に手をかけたチンピラを撃ったのだ。音はしたものの銃声には聞こえなかった。
チンピラは背後から頭を撃ち抜かれ、後頭部から流れ出した血が地面を赤く濡らした。買い物カゴが横倒しになり、数本のワンカップが転がっていた。
不破は己に言って聞かせた。もう前に進むしかないと。
不破と南場はチンピラの両脇を抱えあげると、死体を引きずって板塀の陰に隠した。ふたりがかりだというのに死体はやけに重かった。引き戸の前には血だまりができたが、秋雨がそれを洗い流そうとする。
石国豪が鍵を回して引き戸の捻締錠を外した。引き戸を静かに開けながら、コルトを構えて屋内へと侵入した。銃口を玄関内のあちこちに向ける。南場が玄関前で外を見張り、不破は石国豪の後を追った。
『あさひ荘』の玄関は広々としていた。畳三畳分の三和土と、高さ三十センチはありそうな立派な上がり框があった。かつては多くの商人がそこで腰をかけて靴を脱ぎ履きしていたのだろう。上がり框は飴色に変わって角はすり減っている。
建物は歴史を感じさせたが、管理が行き届いているとは言い難い。一本の裸電球が玄関のみを妖しく照らすだけで、客室へとつながる廊下は暗かった。
三和土には何足もの男物と女物の靴が乱雑に並べられ、泥や土埃で薄汚れていた。天井は蜘蛛の巣で覆われ、壁には黒いシミができている。今の新井の境遇がこの建物に表れている気がした。古い家屋独特の臭いがする。
玄関口には二階へと続く階段があり、その傍にはピンク電話が設置されていた。
石国豪が指を差す。ふたりは土足のまま廊下へと上がった。不破は登山ナイフを腰から抜き出すと、ピンク電話の電話線を切断して外との連絡を遮断する。
二階からジャラジャラと麻雀の洗牌の音がし、複数の男たちの声が聞こえた。石国豪が不破のほうを振り向いて、親指で一階を探るように無言で命じた。彼はいつもの薄笑いを浮かべ、二階の獲物は自分のものだと主張していた。
不破は言うとおりに一階の廊下へと進んだ。近藤からも石国豪の指示に従うよう厳命されていた。
石国豪は制御不能の無頼漢だった。だが、拳銃を扱う所作やチンピラを冷静に射殺する姿を見て、わざわざ岡谷が台湾から呼び寄せるだけの実力を有しているのがわかった。彼はコルトを握ったまま、猫のように音を立てずに階段をゆっくりと上がっていく。
不破は登山ナイフを右手で握り、一階の廊下を静かに歩んだ。廊下の両側には部屋へと続く木製のドアがあり、この売春宿を監視していた者の報告によれば、三畳や四畳半の和室が四つあるという。廊下の突き当たりは共同便所と洗面所だ。
不破は部屋のドアを開けた。灯りはついていない。濃厚な暗闇に包まれた四畳半の和室で、ベニヤ板で窓がふさがれているために、闇に慣れた目でもなかの様子は捉えにくい。
部屋は陽が当たらないためか、ひどくじめじめとカビ臭かった。畳のうえには一組の乱れた布団と電気ストーブがあり、ゴミ箱には使用済みのちり紙や避妊具が捨てられてあった。カビの悪臭に交じってタバコや精液の臭いが鼻をつく。
他のふたつの部屋も同様だった。営業を終えた後にすぐ清掃をするわけでもなく、乱れた布団や吸い殻だらけの灰皿もそのままだった。
最後の部屋も真っ暗だった。吊り下げ式の丸型蛍光灯はついておらず、電気ストーブのスイッチも消えていたが、布団のなかには痩せた長い髪の中年女がいた。眠りにつこうとしていたようだが、目出し帽の男がいきなり現れて、目玉を飛び出さんばかりに驚いている。
「騒ぐな。叫べば命はない」
不破は口に人差し指をあてた。登山ナイフの刃を見せると、中年女は身体を硬直させた。
「こ、ここは怖いヤクザがいっぱいいるよ」
「知ってるさ」
不破は土足で中年女に近づいた。
腰のポーチから針金と粘着テープを取り出すと、中年女の両腕を後ろに回して縛った。その腕には肉がついておらず、不破がうっかり力を入れ過ぎてしまえば、簡単に骨が折れてしまいそうだった。中年女は仕事を終えてから風呂に入っていないようで、頭から汗と皮脂の臭いがした。ガンを患って入院した母と同じ体臭だった。
両手首を針金で縛ってから、粘着テープで中年女の口に貼りつけ、ホルスターからリボルバーを取り出した。中年女に拳銃を見せつける。
「布団をかぶっておとなしくしてろ。弾が飛んでくるぞ。逃げようとは考えるな。外にはもっと怖いヤクザがいる」
不破は拳銃をちらつかせて警告をした。
こちらも怖い本職なのだと暗に告げると、中年女は首を痛めそうな勢いで何度もうなずいた。
そのときだった。共同便所のほうから水が流れる音がした。不破は再び口に人差し指をあてて、中年女に声を出さないように命じた。彼女に布団を頭からかぶせて立ち上がり、和室から廊下へと出ると、共同便所のほうににじり寄った。
不破はリボルバーをホルスターにしまった。二階からは男たちの会話が耳に届いた。不破の拳銃にはサイレンサーはついていない。そもそもリボルバーでは構造上の問題から、サイレンサーをつけても音は消えないのだという。ここで派手な音を鳴らすわけにはいかなかった。
不破が右手で登山ナイフを握りしめるのと同時に、共同便所のドアが開いた。共同便所内の電球の灯りとともに、赤いタートルネックにリーゼントの中年男が下を向いたまま出てきた。用便を済ませたらしく、ズボンをたくし上げている。目の前の不破には気づいていない。
不破は左手を伸ばして中年男の口を覆った。中年男を共同便所のタイル張りの壁へと押し戻し、登山ナイフを中年男の喉に突き刺した。登山ナイフの刃はタートルネックの生地をやすやすと突き破って、中年男の喉に深々とめりこんでいった。頸動脈を切断したらしく、破れた生地の間から血が飛び散り、顔や作業服に血飛沫を浴びる。
中年男の目から輝きが失われていく。己の身になにが起きたのかも把握できていないようだった。喉笛が切れてヒューヒューと笛のような音が漏れる。
不破のほうは中年男を把握していた。八年前にボウリング場で新井と衝突したさい、彼の傍にいたチンピラだ。髪型や格好はあのころと変わっていないが、たった八年でやけに老けて見える。ボウリング場のアルバイト少年でしかなかった不破に殴りかかり、額でパンチを防がれて右手を骨折させていた。あのときから命の奪い合いをする運命にあったのかもしれない。
「バカな兄貴分を恨め」
登山ナイフで腹を何度も突いた。
刃はなんの抵抗もなく入っていき、まるで豆腐を刺しているように手応えがない。中年男は腕をだらりと下げたまま動かなかった。喉に一撃を食らった時点で抵抗する力を失ったようだった。倒れそうになる中年男の身体を支え、音を立てないように和式便器の傍に寝かせた。登山ナイフを中年男のズボンにこすりつけて、柄までべっとりとついた血を拭う。
共同便所を出てドアを閉めた。ポーチから手ぬぐいを取り出して、顔についた血を拭い取った。
ついに人殺しとなった。むせかえるような血の臭いが現実を突きつけるものの、とくにこれといった感情は湧いてこない。極道の道を選んだ以上は避けられないだろうと腹をくくり、王英輝を嵌めようとした連中を率先して殺ってやると意気込んでさえいた。ようやく一人前になれたと、心が高揚していくのを感じた。
中年女の部屋を覗いた。彼女は不破の言いつけを固く守っているようで、布団をかぶったまま動かずにいる。
不破はそっと息をついた。いくら人殺しになったからといって、手を縛られて自由を失った女を消したくはなかった。石国豪なら喜んでなぶり殺しにしたかもしれない。
その石国豪がいる二階で激しい物音がした。再び洗牌の音がしている最中だった。
ドアが開け放たれる音がしたかと思うと、銃声とは思えぬ低い作動音が次々に鳴った。石国豪が行動に出たのだ。複数の男たちの怒声や叫び声に混じって女の悲鳴も聞こえる。床を踏み鳴らす音がしたかと思うと、地震のように建物自体が激しく揺れ、いくつもの衝突音が一階にまで轟いた。
不破は階段を一段抜かしで駆け上がった。二階は六畳間がふたつあった。そのうちのひとつのドアは開けっ放しで、急襲を物語る痕跡が見えた。湯飲みやガラスのコップの欠片が散乱し、麻雀牌や点棒が廊下に落ちていた。
不破は登山ナイフを握りながら、壁を背にして立ち、騒ぎのあった六畳間を慎重に覗いた。心臓がひときわ大きく鳴る。
石国豪が六畳間の出入口付近で仁王立ちしていた。コルトを何発も発砲したらしく、彼の周りは硝煙で視界が白く濁っていた。