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昭和六十二年

 

 

 社長室の金庫には株券や債権、手形といった有価証券以外に、約七千万円の現金が保管されてあった。『王和ファイナンス』のカネではない。みかじめ料やゲーム賭博、地上げなどで得た収益の一部だ。

 不破はそのうちの五百万円を掴み取り、応接セットのテーブルに札束を載せた。谷田部の目が吸い寄せられる。

「これは手付けだ。調査期間が延びるようなら、そのつど請求してくれ。カネに糸目はつけない。人手が足りないようなら、若いもんを回す」

「わかりました。急ぎ監視体制を構築します」

 谷田部は背筋を伸ばした。

 不破は内線電話をかけて、事務員にデパートの紙袋を持ってくるように伝えた。事務員から紙袋を受け取り、谷田部にそれを渡した。

 谷田部は目を輝かせて現金を紙袋にしまい、意気揚々と社長室を出て行った。

 不破はひとりになると、タバコをくわえて火をつけた。尾崎と同じく虫の好かない男ではあったが、石国豪のような獅子身中の虫をひそかに見張るには適役だった。

 再び金庫まで移動すると、金庫内の引き出しを開けた。そこには有価証券に交じり、血液型検査証明書が入っていた。久々にそれを手に取って目を落とす。

 血液型検査証明書には不破の名前が記されており、血液型の項目には“O型”と記されていた。

 九年前、不破は刺傷によりヤクザ病院に担ぎ込まれて輸血を受けた。そのさいに血液型が調べられ、己の身体に流れているのがB型の血だと判明した。王大偉の血を引いていないことも。

 現在に至るまで、その事実を知っているのは不破本人と少数の病院関係者、それに近藤だけだった。

 近藤は不破を実の兄弟ではないと知ってからも、今までと変わらずに接してくれた。他人に言いふらしたりもしない。

 不破が金融業を軌道に乗せると、ヤクザ病院の関係者に多額のカネを渡し、自分に関するカルテを故意に紛失させた。そのうえで血液型検査証明書を偽造させていた。

 不破隆次の血液型はB型などではない。王大偉の血を引くO型なのだと主張するためだ。

 自分の本当のルーツはどこにあるのか。探偵を雇って長期間にわたって調べさせた。新宿の大衆劇場『モンマルトル』の関係者を中心に、女優時代の不破有紀子を知る者たちから証言を得た。

 その調査の結果、不破の母親が有紀子であることは間違いないとわかった。

 有紀子が出産した産婦人科が大久保に存在しており、出産に立ち合った老医者やベテラン看護婦がいた。彼女が男児を出産する前日、一介の劇場経営者に過ぎなかった王大偉が病院をひそかに訪れ、ふたりで赤子の名前を考えていたという。

 問題は不破の父親だ。有紀子が王大偉の愛人だったのは公然の秘密だったようで、探偵が『モンマルトル』の当時の劇団関係者やタニマチにあたってはみたものの、有紀子のオトコは王大偉以外に思い当たらないと口を揃えた。

 当時を知る関係者はまだ多く、さらに調べれば事実がはっきりするかもしれなかった。しかし、不破はその時点で探偵に調査の中止を命じた。

 探偵にそれ以上調べさせれば、藪蛇となりかねなかった。探偵がもし本当の父親を探し当てたとすれば、事態によっては探偵と父親の口を封じなければならなくなるからだ。王大偉と有紀子の関係を疑う人間が現れないのなら、もうそれに越したことはない。

 証明書を引き出しにしまうと、不破は金庫のドアを閉じた。

 

 

 不破を乗せたベンツは区役所通りの路肩で停車した。

 運転席の土居がすかさず車を降り、周囲に注意を払いながら後部ドアを開けた。不破が降車する。

 歌舞伎町は今夜もとくに変わらない。アルコールと生ごみが混ざり合ったような甘酸っぱい腐敗臭が漂い、陽が沈んでからもアスファルトやコンクリートの建物には熱がこもり、うだるような暑さに包まれている。

 不破もそれとなくあたりを見回した。近くにあるバッティングセンターから軟球を打つ音が聞こえ、ウチワを手にした客引きたちが気だるそうに通行人に声をかけていた。若いフィリピン人女性を連れたサラリーマン風の男が、腕を組みながらホテル街へとしけこもうとしている。

 いつもの光景ではあったが、石国豪が町内にいるのかと思うと警戒せずにはいられない。自分が臆病風に吹かれているようで腹立たしい。

 谷田部に依頼をしてから早くも三週間が経った。彼は複数の調査員を使って交代制で石国豪を監視している。

 谷田部から定期的に送られる報告書によれば、石国豪は昼間『日月潭』で寝泊まりし、夜はサウナと雀荘に入り浸っているか、『日月潭』の女たちが暮らす新大久保の安アパートにしけこんでブラブラしていた。とくにトラブルは起こしておらず、ケンカや暴力沙汰の報告もない。

 谷田部の目からしても、石国豪の体調は良好とはいえないようで、指先がやはり痛むのか、雀荘で何度も麻雀牌を取り落としていたという。そのくせ医者に診てもらった様子はなく、クリニックや病院には一度も足を運んでいなかった。不破は谷田部に気を緩めることなく見張るよう伝えている。

 区役所通りに面した雑居ビルに入り、エレベーターで五階へと向かった。『クラブKUROHIMEくろひめ』のドアを開ける。

 店内は今夜も盛況だった。タバコの煙で靄がかかっており、客やホステスの声で騒々しいほどだ。

 ママの篠原麻里の意向でカラオケは置かず、ピアノによる生演奏を売りとし、銀座に負けない店づくりを目指していた。とはいえ、場所柄や時代のせいか、客は上品な人間ばかりとはいえない。ブランド品を露骨に見せびらかす不動産成金、ヤクザのフロント企業の役員や風俗店グループの経営者などが多い。

 連中は己の羽振りのよさを見せつけるため、一万円札を派手にばら撒くのはザラだ。高級腕時計をホステスにポンとくれてやる者もいた。

 今夜の客層は一段とひどく、パンチパーマの中年男がアイスペールに二本のストローを差して、鼻の下を伸ばしながらホステスと肩を寄せ合って酒を飲んでいた。テーブルにはシャンパンのドンペリとナポレオンブランデーのボトルが置かれてあった。

 成金の間で流行っている“ピンドンコン”なるカクテルだ。高値で知られるピンクのドンペリと高級ブランデーをアイスペールにドボドボと注いで飲む。

 不破も上部団体の親分とのつきあいで口にしたが、ただ苦いだけで飲めたものではなかった。希少な高級酒がこんなバカげた形で消費されているかと思うと、ヤクザの不破でさえも国の行く末を憂えてしまう。

 不破が店に姿を現すと、ネクタイ姿の店長や黒服たちが近づいて挨拶をした。

「王会長と徳山社長が先ほどからお待ちです」

「ああ」

 店長に促されて奥にあるVIPルームへと向かった。麻里のいるボックス席を見やる。

 彼女はシアーカットのロングドレスを着て、経営者風の老人たちを接客していた。不破に挨拶しようと腰を上げるが、目で接客を続けるように合図をした。

 奥にあるVIPルームのドアを開けた。ここだけはカラオケが完備されていたが、歌っている者はいなかった。王英輝と番頭格の藪、それに兄貴分だった徳山次郎がソファにもたれ、ホステスと談笑をしていた。

「待たせてしまってすみません」

 不破は王英輝たちに一礼した。王英輝が赤ら顔で手を振る。

「謝らなきゃならんのはこっちのほうだ。おれの不肖の倅のせいで、お前と堂々と商談できなくなったんだ。ここのホステスはママを含めて粒ぞろい。会議室なんかで堅苦しくやるよりずっといい」

 王英輝がホステスの太腿に触れた。ホステスは「会長のエッチ」とたしなめて彼の手を軽くつねる。

 不破はホステスたちに命じた。

「ビジネスの時間だ。お前たちは一旦外してくれ」

 ホステスたちが一斉に立ち上がった。オーナーの命令に素直に従ってVIPルームを出て行く。

 徳山がグラスやアイスペールを隅にやって、テーブルいっぱいに大きな紙を広げた。ブライトネスが次に本腰を入れて用地買収を進めているという西巣鴨一丁目の公図だった。用地買収が完了した土地は緑のマーカーで塗りつぶされているが、ひとつだけ赤いエリアがあった。

「問題が起きた」

 徳山が赤いエリアを指さした。

 彼は南場と同じく不破の兄貴分だった。新宿の夜の帝王を自称し、かつてはディスコに入り浸ってジゴロとして、多くの女を手なずけていた。しかし、そのうちのひとりといい仲となり、子供ができたのをきっかけに岡谷組を除籍。ヤクザ社会から円満に足を洗いながらも、今もブライトネスや岡谷組と交流があった。

 彼と兄の春男は仕切り場の土地を売却したカネを元手に、芸能事務所やAVメーカーに出資。徳山のほうは不動産仲介業にも乗り出し、王英輝や不破とともに地上げの仕事に携わっている。かつてはジョン・トラボルタのようなパンタロンスーツを着こなしていたが、今は肩パッドの入ったDCブランドのジャケットを羽織り、“安全地帯”の玉置浩二のように前髪をたらしている。

 赤いエリアは六世帯の小さなアパートだった。ひとりだけゴネていた地主とも話をつけ、高級マンションの建設を目指す財閥系不動産に土地を転売する予定でいたが、アパートの賃借人との間でトラブルが起きた。

 不破も席についた。テーブル上の公図を指さす。

「また居座りですか」

「ああ」

 王英輝が苦り切った顔をした。

「若いもんを行かせましょう。あまりゴネるようなら身の程をわきまえさせます」

「そう簡単にはいかないぞ。賃借人が全員ヤクザだった。用地買収の匂いを嗅ぎつけて棲みつきだした。大家もグルだ」

「そのヤクザどもはどこのもんですか」

「これだよ」

 藪が胸ポケットから三枚の名刺を取り出した。

 名刺の上部には、天仁会系の組織を示す三角形の代紋がデカデカと刷られてある。天仁会系一家の四次団体だった。

 不破は胸をなで下ろした。小阿仁一家は浅草を根城にした東京ヤクザの老舗で、同じ天仁会系とあって多少のつきあいもある。岡谷に動いてもらう必要があるものの、相手が同じ天仁会であれば、話はおおむねこじれずに進められる。

 岡谷組は天仁会のなかでも有力組織と目されている。岡谷組の上部団体である義光一家は天仁会の中核組織だ。三次団体のトップとはいえ、日本一の歓楽街を仕切る顔役であり、天仁会の直系組織となる日も近いと言われている。岡谷の存在を無視できる者は天仁会のなかにはいない。

 不破は名刺を取り上げた。

岡谷オヤジに口を利いてもらいましょう。なにがしかのカネは必要になるでしょうが、居座ってるやつらもカネ目当てです。二、三日で退去させましょう」

 徳山も同意するようにうなずいた。

「小阿仁一家は天仁会でも傍系だ。岡谷オヤジの一声ですぐに退いてくれるはずです」

 王英輝が安堵の息を漏らした。

「ゴネた相手がヤクザでよかった。カタギと違って話が通じる。もっとも、それも力強い弟たちがいればこそだ。頭でっかちな心賢はそのへんをちっともわかってない」

「社会経験を積んでいけば、おのずとわかってもらえるはずです。あいつは賢い子だ」

 不破がタバコをくわえると、藪がかいがいしくライターで火をつけた。

「あなたも大層立派になられた。さすが王大偉の息子です」

 王英輝も深々と頭を下げた。

「おれからも礼を改めて言わせてほしい。今のブライトネスがあるのは、傑志やお前が身体を張ってくれたおかげだ。これからも頼む」

「礼を言わなければならないのはこちらのほうです。兄さんや藪さんたちが私を拾い上げてくれたんですから」

 不破は微笑んでみせた。

 十七年前の冬が脳裏をよぎる。不破が母の遺骨を持ってブライトネスの事務所を訪れ、王大偉の息子を名乗ると、王英輝と藪から偽者扱いされて叩き出されそうになった。そんな彼らに本物と認めさせたのだ。悪い気分はしない。

 徳山が公図をカバンにしまいこんだ。ボトルを掴んでそれぞれのグラスにブランデーを注ぐ。

「話もまとまったことですし、飲み直すことにしますか」

「乾杯しよう」

 王英輝がグラスを手にした。

 不破はソファから立ち上がった。王英輝が怪訝そうに見上げる。

「どうした?」

岡谷オヤジにさっそく電話一本入れておきます。善は急げだ。まだこの時間なら起きているはずですから」

「まったく。企業戦士顔負けだな」

「先にやっていてください」

 不破はVIPルームを出た。

 スタッフルームへと移動し、事務机にあるビジネスフォンから岡谷邸へと電話をかけた。部屋住みの若衆がワンコールで出た。岡谷に取り次ぐように伝える。

〈隆次か? 今どこにいる〉

 電話に出たのは本部長の南場だった。

「どうして兄貴が……」

 不破は眉をひそめた。

 岡谷組における本部長の役割は、会社組織の総務部長のそれと似ている。岡谷や執行部の意向を組員たちに漏れなく伝え、その反対に組員からの問い合わせや相談に応じ、最高幹部と組員の両方と密に連携することにある。

 外交役として全国をあちこち飛び回る若頭の近藤とは対照的に、毎日のように事務所に詰めているため、急なトラブルにも対処しなければならない。

 南場の声は重たかった。

〈ちょうどお前のポケベルを鳴らそうと思っていた。岡谷オヤジの家に今すぐ来てくれないか〉

「なにがあったんです?」

〈それが……鞭馬会だ〉

「わかりました。すぐに向かいます」

 不破は電話を切った。

 近藤は義理掛けで四国に飛んでいる最中だ。南場の手に余るほどの問題が鞭馬会との間で起きたらしい。

 不破は再び電話をかけた。ベンツのなかで待機している土居に連絡し、クラブの入っている雑居ビルまで車を回すように伝えた。

 祝賀ムードは一瞬にして消え去り、鉛を飲みこんだかのように胃袋が重たくなった。

 

(つづく)