今月のベスト・ブック

装幀=田中久子
『羊式型人間模擬機』
犬怪寅日子 著
早川書房
定価 1,760円(税込)
たとえば何世代か前の日本人のように、カレーライスを食べたことがないまま育った人が初めてカレーを食べた時、その味をどう表現するでしょうか。スパイスと調味料の甘み、辛み、旨みが醸し出すハーモニー、ソースと具とライスの心地よい混じり具合を、それまでの食体験から言葉にするのは不可能に近いのではないかと思います。それに似た感触を、犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』に抱きました。通常の小説になぞらえてこの面白さを語ることはむずかしい。言葉で組み立てられたオブジェ──幻想的な言語芸術というべきかもしれません。それぞれの読者は受け取った印象を明確な感想として語ることができないのではないでしょうか。
第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作です。「The Android Slaughters Human sheep」という英語タイトルが添えられています。「アンドロイドが人間羊を屠る」──その通りのストーリーなのですが、ホラーではない。むしろ、愛らしい側面が強く、同時に寂寥感も伝わってきます。
「きょうのあさ、だから今朝、大旦那様が御羊になられた」という一文で話は始まります。カフカの『変身』を思い出したりもしますね。日本語がちょっと変なのは、語り手のアンドロイドが、始動したばかりで、言語機能が万全ではないためらしい。しかし、時間の経過とともに言語は流暢になり、雄弁で、饒舌とさえいえる語り口を獲得します。このあたりの工夫もおもしろい。
物語の全体像は、臨終を間近にした「大旦那様」が羊に変身し、3日後、アンドロイドの手によって絶命させられ、さらに解体されるまでを描く、というもの。理由は語られませんが、この家の男性は死ぬ間際に羊と化し、解体されて、その肉を一家の者が口にすることになっているのです。
アンドロイドは11歳の少女の姿形をしており、とても有能。甲斐甲斐しく働き、何世代も前から、一家の重大な行事をすべてこなしています。「羊式」というのは、羊と化した主人の臨終にまつわる儀式一切のことで、タイトルはつまり「羊式を執り行う役割をもった、人間によく似た機械」という意味でしょう。役割を果たしながら、彼女は大家族である一家とその先祖たちを思い起こし、個性豊かな彼らの輪郭を描き出してゆきます。一家のしきたりに馴染む者もいれば、そうでない者もいて、理不尽な生に対する複雑な感情が湧き起こります。
実のところ、私は一読してもすべてを呑みこむことができず、すぐ再読することになりました。すると登場人物たちの愛らしさや興味深い関係がすっきりと胸に沁み込んできて、なんと素敵な物語だろうと思った次第。万人向けとはいえないかもしれませんが、波長の合う人にとっては、極上カレーのような感激を味わえる作品といえそうです。
今回のハヤカワSFコンテストには大賞受賞作がもう1作。カスガ『コミケへの聖歌』(早川書房)がそれです。
オビの惹句がよく出来ていて「黄昏ゆく文明の放課後を描く ポストアポカリプス部活SF」とあります。
謎の赤い霧が都市を覆い、大多数の日本国民は滅んでしまう。わずかに生き残った人たちは山間の集落に避難し、田畑を耕して封建時代の村人のような暮らしをしている。そんな中で、悠凪、比那子、スズ、茅の4人の少女は、古い紙屑の山の中からマンガや小説を発掘しては読み漁り、自分たちも創作することに熱中します。彼女たちには夢があるのです。それは、滅びた日本の中心都市「廃京」と、そのすぐそばの「コミケ」が開かれた場所へ巡礼に出かけること。
時代劇風の貧しい村で、オタク少女がマンガやアニメで盛り上がっているという奇抜な設定がとても楽しい。ノーテンキに夢を果たすことができるわけでもなく、厳しい生活条件に押しつぶされそうになりながら、コミケへの純粋な想いを貫こうとする姿は感動的ですらあります。異色のオタク賛歌。
劉慈欣『時間移民 劉慈欣短編集2』(大森望、光吉さくら、ワン・チャイ訳/早川書房)は、大ヒット作『三体』の著者の作品を日本でオリジナル編集したもの。同書肆からは2021年の『円』以来の2冊目となります。他にKADOKAWAからも2冊の短編集が出ているので、これで4冊。なんと劉慈欣の短編すべてが日本語で読めるようになったとのこと。人気のほどが窺えます。
本書は1999年にデビューした当時のものから、2018年の最新作まで13編を収録。劉慈欣らしい大胆なアイデアと突拍子もない展開が楽しめます。個人的には前半に置かれた、初期の、明るく、野放図な作品群が好み。宇宙全体にベートーベンの第九で歌われる「歓喜の歌」が響き渡るなんて、他の誰が考えつくでしょう!
同じく中国SFの江波『銀河之心1 天垂星防衛〈上・下〉』(中原尚哉、光吉さくら、ワン・チャイ訳/ハヤカワ文庫SF)は、大宇宙を舞台とした本格的エンターテイメント。遥か未来、遠い宇宙の一画で、敵対する勢力同士の争いに巻き込まれた人類の子孫が、AIとともに活躍する。全編宇宙船を舞台とする戦闘活劇で、「是なり」「好なり」といった感じの、中国語の調子を生かした翻訳が楽しい。全3部作の第1部。