今月のベスト・ブック

画像=©jodiecoston / Getty Images
装幀=岩郷重力+Y.S

『マン・カインド
藤井太洋 著
早川書房
定価 2,420円(税込)

 

 超能力とかミュータントとかといったテーマが、SFにはあります。いずれも普通の人間とは異なった能力をもつ存在が登場しますが、彼らはもともとの人類から突如派生したり、あるいは潜在的に受け継いでいた性質を発現させたりします。どういう仕組みで、そういう“超人類”が生まれるのでしょう?

 現代的な理解の仕方では「遺伝子のなせるわざ」ということになりそうです。遺伝子に突然変異が起きた、あるいは、沈黙していた遺伝子が目覚めたといった理由で、人間ならざる者が生まれるのではないでしょうか。

 実際、遺伝子編集が現実のものとなった現在、DNAに手を加えて優れた能力をもつ子どもを生み出すことも可能だと考えられ、その是非を問う議論があったりします。

 藤井太洋の新作『マン・カインド』は「人のようなもの」というタイトルどおり、この問題を正面に据えたスリリングな力作。超能力・ミュータントものが現代的にアップデートされたものと位置づけたくなります。

 物語は今から20年後の2045年7月、南米アマゾン奥地での戦闘シーンから始まります。農業系ベンチャー企業が事業を営むことで発展した街〈レティシア〉が独立を宣言し、周辺国の政治的・経済的介入を排除しようとしたため、これを阻止しようとするブラジル政府らは軍事企業から部隊を招聘し、レティシアの軍事・警察機能を制圧しようと図ります。一方、レティシア側も「現代のチェ・ゲバラ」を自称する天才的軍事コンサルタントを雇って対抗することに。

 双方は「公正戦」と呼ばれる限定的かつ厳格なルールに基づく戦闘で勝敗を決めることに同意、戦いは一瞬のうちにレティシア側の勝利で決着します。ところが、投降したブラジル側の部隊が、1人の女性兵士を除いて全員射殺されてしまう。これは明白な戦争犯罪です。しかも、すべては現場にいたジャーナリストの眼前で展開し、世界中に配信されるのです──最後の虐殺シーンを除いて。

「公式戦」という戦争形態もそうですが、ニュース配信のやり方にも、著者ならではの近未来予測が色濃く表れていて印象的。少し詳しく見てみましょう。

 取材するジャーナリスト・迫田城兵は、撮影ドローンや自分の体に装着したカメラで事件を撮影し、コンタクトレンズに仕組んだビュアーに映像を投影して確認。「記事作成」と小指に向かってつぶやくことで、AIが自動的に動画の編集とニュース原稿作成を行います。今回の戦闘も、こうして作られた記事が配信されたのですが、配信プラットフォームが記事を採用する際の基準となるのが「事実確認スコア」。フェイクでないか、こちらもAIが瞬時に真実の度合いを認定するもので、今回、迫田が送った記事はずっと高いスコアを得たのですが、最後に送った「虐殺」の記事だけは5割に満たないスコアとなり、配信を拒否されるのです。なぜ?

 物語はこの謎を追って、アメリカ合衆国に移り、以後はこちらがメインの舞台となります。謎には、冒頭でいった超能力・ミュータント問題が絡んでいて、とんでもない才能を発揮する若者たちやマッドサイエンティスト的な人物が登場してきます。さらに、背後には分断が進むアメリカの問題も投影されていて、読みどころは盛りだくさん。テクノロジーによって変貌する社会の行方に驚きと怖れとを感じさせる近未来の光景です。

 円城塔の短編集と長編が続けて出ました。

『ムーンシャイン』(創元日本SF叢書)は2018年から24年の間に書かれた4つの作品を収めたもの。言語、数学、宇宙論、宗教、生成AIなどへの多彩な関心を起点に、とりとめがあるような、ないような、独自の物語と哲学的冗談ともいえる文言を織り交ぜた円城塔ならではの文章が楽しめます。これらをまとめて簡潔に紹介するのはあらすじ的にも内容的にも困難極まりないので、ここではもう1冊の長編の方を。

『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』(文藝春秋)は「東京の二〇二一年、そのオリンピックの年、名もなきコードがブッダを名乗った」ことから興った「機械仏教」の歴史を物語っています。機械仏教は、もとの仏教のそれをなぞる形で進展するので、仏教そのものの歴史も同時に語られることになります。釈迦本人は「オリジナル・ブッダ」であり、ブッダを名乗るコードは「ブッダ・チャットボット」となるわけです。

 さらに、狂言回し的存在として“わたし”という人物(?)が登場します。彼は人工知能の修理を職業としており、担当した焼き菓子製造機(製造する菓子に「タスケテ」というメッセージを記した)が新たなブッダになったのではないかと疑われて、事態の関係者としてお寺に軟禁されることになります。

 ああでもない、こうでもない──というより、あれもあり、これもありそうという議論が積み重なってゆくうちに歴史は未来へまで及び、機械仏教も“わたし”も宇宙に飛び出してゆくことになります。そう、これは宇宙SFでもあるのです。

 機械仏教にも禅宗が誕生したはいいもののそもそも機械に座禅が組めるのか、といった調子の爆笑もののエピソードが満載。仏教の深淵さ、あるいはとりとめのなさとともに、笑いで頭がほぐされて救いがもたらされるという、不思議な読みものとなっています。