今月のベスト・ブック

装幀=坂野公一(welle design)
装画=カチナツミ

『いずれすべては海の中に』
サラ・ピンスカー 著/市田 泉 訳
 竹書房文庫
定価1,760円(税込)

 

 古い話になりますが、1950年代後半から60年代にかけてジュディス・メリルというアメリカの作家・評論家が「年刊SF傑作選」を編纂、SF雑誌に限らず、広い範囲から作品を収集しました。この「傑作選」の多くが日本でも翻訳出版され、彼女の選択眼は、SF愛好家のみならず、短編小説ファンに広く大きな影響を与えたと思います。

 特に、通常のSFからはみ出た部分――尋常ならざる出来事や思考を、洗練された文章で綴った異様な小説の存在をピックアップした功績は大きい。こうした傾向の作品は今でもアメリカSFに受け継がれているようで、サラ・ピンスカーの作品集『いずれすべては海の中に』にもその伝統を強く感じました。

 冒頭の「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」は、文庫編集部によれば「最新の義手が道路と繋がった男の話」という内容。「なんじゃ、それは?」となってしまいますが、読んでみるとまさにそのとおり。もう少し詳しく紹介してみましょう。

 主人公アンディは21歳の青年。自分の農場を経営しており、ある日、コンバインによる事故で右肩から先を失います。失った腕の替わりに最新式の義手が取り付けられ、脳に直接装着したコンピューターチップによって動かすことが可能。リハビリで右手の動きを取り戻してゆくアンディですが、問題が生じます。新しい腕が道路になりたがるのです。なりたがるどころではなく、腕は「自分が道路だと知っていた。具体的に言うと、コロラド州東部にある、二車線で97キロの一筋に伸びるアスファルト道だ」。かくしてアンディは日常生活を取り戻す一方、トラックがガタゴトと右腕を走り抜けるのを感じるようになってしまいます。

 主人公のありふれた日々に侵入する、はるか彼方の道路の「記憶」――というか、どうやら現在の状況らしいのですが――がなんとも奇妙な詩情をかもし出します。この困った事態は、とりあえずSF的に解決されるのですが、それにしても自分が道路になった気分とはどんなものやら。戸惑いつつもうっとりしてしまいました。

 この「道路」という題材は他の収録作にも登場します。「オープン・ロードの聖母様」は、ネビュラ賞をとった長編『新しい時代への歌』(本誌21年12月号で紹介)の元となった短編ですが、道路を車で旅するミュージシャンの話ですし、「イッカク」は鯨のかっこうをした乗用車でアメリカを横断するというとんでもないロードノベル。どうやら著者にとって旅は重要なテーマのようです。

 世代宇宙船を扱った「風はさまよう」も、こじつければ旅の話。さらにいえば、私がいちばん魅入られた「深淵をあとに歓喜して」にも旅の要素は盛り込まれています。

 これは建築家とその妻の愛の物語。出遭いから建築家の死後、残された妻が夫の秘密を探り当てるまでが美しく描かれます。その秘密とは、男が軍の命令で出かけたひと月の旅の間にあった「何か」。それ以降、彼は人が変わり「点火をこばむマッチ」のように、輝きを避けた人生を送ります。夫を信じつづけた妻が最後に見出した真実は、彼の誠意を証明するもので、これまたある種の「旅」に出た人々(?)に関わっていたのでした。

 全13編。「オープン・ロード――」がネビュラ賞を、「深淵をあとに――」がスタージョン賞をそれぞれ単独で、本書全体はフィリップ・K・ディック賞を受賞しています。

 スタニスワフ・レム『マゼラン雲』(後藤正子訳/国書刊行会)は、2006年に84歳で亡くなったポーランドSFの巨匠の長編第二作。1955年に発表された当時、大好評を博し、ロシア、チェコ、東ドイツなど東欧各国の言語に翻訳されていたのに、その後、著者が刊行を拒否。翻訳はもちろん、ポーランド国内でも読むことが困難になっていたという「幻の作品」です。

 それが今回、〈スタニスワフ・レム・コレクション〉の1巻として日本語で読めるようになったいきさつは、訳者あとがきや〈コレクション〉監修の沼野充義氏による解説に詳しいのですが、私なりに要約すれば、レム自身が本書を封印した理由としては、執筆当時の世相を反映した共産主義優位の未来世界のビジョン、傾倒していた詩人リルケの文体の強い影響などがあったようです。そのため、晩年、母国で刊行された全集には収録を認めたものの、外国語への翻訳は許可しないまま、レムは亡くなってしまった。しかし今回、沼野氏が「ダメもと」でレムの著作権管理者に連絡したところ、沼野氏への信頼と、日本の愛読者のためを思い、レムのご子息が翻訳に同意してくれたというのです。

 ポーランド以外では読むことができなかった作品が日本語で読める! これは事件です。読まないわけにはいきません。

 32世紀(のちにレムは時代設定が未来過ぎたと言ったとか)、人類は統一され、地球から太陽系へと進出、さらに遠い世界を目指しています。物語は、医師として恒星間宇宙船に乗り込んだ主人公が、生い立ちを振り返り、ケンタウルス星系へ到達する過程を驚くべき詳細さで描きます。

 共産主義への偏向は特に鼻につかず、独自の文体で紡がれる未来世界の様子を読み解くのが楽しい。いまだに古びていない傑作だと感じました。SFに興味をもつ人は、ぜひ。