今月のベスト・ブック

装幀=川名潤

『無限病院
韓松かんしよう/ハンソン
山田和子 訳
早川書房
定価 3,410円(税込)

 

『無限病院』を読んで驚いたのは、先月この欄で紹介した円城塔の『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』の一場面であるかのような描写が冒頭に出てくること。

「プロローグ 火星の紅十字」という章なのですが、宇宙船〈じやくみようおう〉が火星に到着、乗り組んだ探査隊はここで仏陀を探すミッションに従事します。なぜなら「日進月歩といっていい科学の目覚ましい発展によってなされてきた数々の新発見のうち、最大のものが、仏陀は宇宙のいたるところに存在しているはずだという驚くべき事実」が判明したのだというのですから、これは『コード・ブッダ』がたどり着いた最終ビジョンそのもの。もっとも円城作品と韓松作品は書かれた順序が逆なので、こちらが『コード・ブッダ』の登場を予告していたというべきでしょうか。

 また、このプロローグは内容的に本編からはかけ離れた位置にあって『無限病院』の本筋と直接の関係はありません。本書から始まるという3部作全体の導入部なのかも。

 前置きが長くなりましたが、本書で長編初紹介となる韓松は『三体』の劉慈欣らと並び称される中国SF四天王の1人。劉慈欣がハードSFの王道を行くとすれば、韓松は、本作を読むかぎり、カフカ的迷宮世界を構築する不条理SFを得意としているようです。

 主人公・ヤンウエイは政府の職員ですが副業として作詞・作曲を手がけており、今回、ある企業のテーマソングをつくるため、内陸部の大都市を訪れます。ところが投宿するホテルで無料のミネラルウォーターを飲んだ途端、激しい胃の痛みに襲われて気絶。3日後に気がつくと、ホテルの女性従業員2人が彼を市の中央病院に運び込みます。以後、この病院での体験が語られるわけですが、結末までずっと楊偉は胃の痛みから解放されることがなく、多くの検査に追われるばかり。いつまで経っても治療は始まらず、病院内のおぞましい光景を目にしながら、医師や看護師、それに患者たちと精魂尽き果てるようなやりとりを繰り返すことになります。グロテスクでナンセンスでブラックユーモアに満ちた細部描写はまさに圧巻。

 そうした過程で明らかになってゆくのは、病院こそが現代社会の中枢であり、国民は1人残らず治療を必要としているので、未来の都市はすべて病院と化すだろう、そして人々はすべてを病院に託すことになるという政府の方針。この《医療の時代》において「医者はどのように死ぬのか」と声高に疑問を発する女性患者・パイダイとの出会いが、楊偉の運命を大きく左右することになります。

 ここで述べられている「病気」や「病院」「医師」「患者」など、あらゆるものが抽象的意味合いを帯びていることは明らかです。いったい何を指しているのか? それを推察しながら読むことで、この作品のスリリングな魅力は一層増します。同時に、中国でSFを執筆する作家の困難さと、それゆえのやりがい、面白さをも感じとることでしょう。そんな作家が中国星雲賞をはじめとする賞に輝き、多くの読者の支持を得ていることも忘れてはならないと思います。

 なお、本書は英訳本からの重訳ですが、本国版とは英訳の過程で変更があり、著者本来の意向に沿ったものに近づいているとか。このいきさつにも興味深いものがあります。

 高山羽根子『パンダ・パシフィカ』(朝日新聞出版)の舞台は2008年の東京。

 この年の1月、中国製冷凍餃子による中毒事件があり、4月、上野動物園のジャイアントパンダ、リンリンが死亡。5月に中国四川省で大地震があり、7月には東京スカイツリーが着工されました。小説ではこうした出来事への言及があり、ストーリーにSF的なからくりが盛り込まれているわけでもありません。つまり現実的光景の中で起こる、一見、個人的なイベントが語られるのみ。にもかかわらず、読み進めるうちに感じる静かな興奮と、読後にじわじわくる驚異はまさに「奇妙な味」であり、つまりはSF圏内の作品だと見ていいと思います。というか、これもSFだと言ってしまいたい。

 主人公は篠田モトコという独身女性。両親と同居し、アルバイトを掛け持ちしながら生活しています。2008年のある日、彼女はバイト先の同僚である村崎さんから、しばらく海外に行くので、その間、マンションで飼っている小動物たちの世話をしてもらえないかと頼まれます。どうやらモトコはそういうことに向いていると判断されたらしい。

 実際、彼女は、牙の不正咬合が原因でネズミが炎症を起こした際には獣医に連れてゆき、手術後、甲斐甲斐しく世話したりします。小さな動物の生命を守るためにも、多大な努力が必要なことを実感するわけです。

 獣医のかかり方や、動物たちの世話の仕方などは、村崎さんとメールを交わすことで修得するのですが、それらのメールによって、ジャイアントパンダが外交手段として友好関係の構築に役立って来た歴史をモトコは学びます。村崎さんが海外でしている仕事は、もしかして、パンダ外交に似ているのでは?

 この世には悪の秘密結社だけでなく、善意の秘密結社も存在し、彼らによって世界の平和が保たれているのでは──と、本書を読んで私は妄想したのですが、それはともかく、人々を脅かす害毒から社会を守ることの大切さ、大変さを伝える、得難い作品でした。