今月のベスト・ブック

装画=鷲尾直広 装幀=岩郷重力+N.S

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(上・下)
アンディ・ウィアー 著/小野田和子 訳
早川書房
(上・下)定価各 1,980円(税込)

 

 宇宙は過酷だ。ほとんど真空だし温度も低い(絶対温度3)。暗くてところどころに星があるが遠くてたどり着くのは困難。行ってもヒトが生きられる場所とは限らない。放り出されたらまず絶望するしかない。

 ところが、アンディ・ウィアーの描く宇宙だとそうでもないように思えてくるから不思議。デビュー作『火星の人』(映画『オデッセイ』原作)では、火星に1人、とり残された男が陽気にサバイバルしてみせるし、第2作『アルテミス』では、月在住の若い女性があっけらかんと大冒険を繰り広げる。どちらも科学的事実に即した火星であり、月である。彼らが使う道具や知識も正確な科学技術にのっとっている。生存条件は厳密なんですよね。それでも「きつい宇宙もへっちゃらだい!」という話になってくるのは、知恵と工夫と努力しだいで必ず道は開けるという信念をつらぬく主人公たちだから。前向きで楽天的な性格の持ち主なのです。

 ウィアーの新作『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の主人公はどうでしょう?

 冒頭、彼(男なのです)は記憶喪失の状態で目覚める。自分が何者で、どこにいるのかもわからない。素っ裸でベッドに横たえられていることだけは確か。何者かが「二足す二は?」などと訊いてくるけれど、答えがわからない。起き上がる力もない。

 こんな無力な状態からすべての状況を把握し、偉業を成し遂げるまでが本書のあらまし。その過程がストーリーということになるのであまり明らかにするわけにはいかないのですが、まずわかるのが、彼は宇宙に放り出された状態であること。宇宙船の中なのでとりあえずの生存は保障されているものの、同乗していた男女2人はすでに死亡。外を観測すると判別できた星は太陽系のものではない。「数光年以内で生きているたったひとりの人間」、それが彼なのだった……。

 こういう状況が浮かびあがると同時に、少しずつ記憶も蘇ってきます。いちばん問題なのは人類が絶滅の危機に陥っていること。太陽の光が減衰し始めたため、食糧生産が絶対的に不足しそうなのです。なぜか?

 太陽の光を「食べる」宇宙生物が大量に発生しているというのですねぇ。「アストロファージ」と呼ばれるそれは、いわば宇宙の病原菌。太陽エネルギーを摂取して増殖し、地球を暗くしているのです。主人公は中学校の科学の先生なのですが、どういうわけかこの病原菌退治のヒントを得るため宇宙への片道旅行に出されたことがわかってきます。

 もちろんウィアーの描く主人公ですから、投げやりなことはしません。手を尽くしてやれることをやり、手がかりを見つけ、困難を突破してゆくのです。宇宙のどこでも「住めば都」と感じさせるのがウィアーの小説の素敵なところ。今回は、その宇宙にさらなる魅力が付け加えられるのでどうぞお楽しみに。冷たい宇宙空間を温かいものに感じさせる傑作SFです。

 前号(小説推理2022年2月特大号)でも触れた劉慈欣『円 劉慈欣短篇集』(大森望、泊功、齊藤正高訳/早川書房)は、デビュー作から『三体』以後に書かれたものまで13編を収録した日本オリジナル作品集。読んでゆくと作者のスケールの大きさと扱う題材の幅広さが伝わってきます。

 1999年のデビュー作「鯨歌」は大量のヘロイン密輸のためシロナガスクジラを利用するという海洋SF。まるでシンドバッドかピノキオかというような話ですが、大胆なアイデア、輪郭のくっきりした登場人物、波乱万丈で緩みのない展開など、作者の特徴がすでにはっきりと見てとれます。これを始めとして、軽快な小品からスケールの大きなSFまで、多彩な内容は現代中国SFの見どころ満載といったところ。

 中でも個人的に強く印象に残ったのは「郷村教師」と「栄光と夢」。

 前者は中国の貧しい農村の子どもたちに、文字どおり命がけで教育を施す聖人のような男の話。作中で魯迅が引用されますが、この主人公もまた中国人の迷妄を打破する努力を重ねるものの、生きてその成果を見届けることはできない。そこへ劉慈欣はSFならではの助け舟を送るのです。政治学者の加藤陽子さんは毎日新聞書評欄で2021年の収穫3冊のひとつに『円』を挙げ、「SFでこれをやるのか」と賛嘆していましたが、念頭にあったのはこの作品ではなかったでしょうか。

 後者は2003年の北京オリンビックにちなんだSF。執筆当時、高まっていたイラク戦争への危機をオリンピック競技と絡め、人間の愚かさ、哀れさを滲ませます。

 国内作品では恩田陸『愚かな薔薇』(徳間書店)を。日本の山村に設定された空間で、思春期を迎えた少年少女が自分たちの正体と世界の真実に目覚める。宇宙文明と吸血鬼を絡めた「伝奇・SF・ファンタジー」ともいうべき大長編です。

 執筆に費やされた年月に驚きます。連載開始は2006年。徳間書店のSF専門誌〈SF Japan〉で、同誌が終刊してからは〈読楽〉に舞台を移し2020年まで。ひと夏の物語にこめられた作者の熱い想いが伝わってきます。装幀にも注目。「永遠に咲き続ける薔薇」という意味の英訳タイトルが併せて記された通常のカバーの上に、薔薇と少女を描いた萩尾望都さん描き下ろし特製カバーが被せられています(3月末出荷分まで)。