今月のベスト・ブック

装画=中島花野
装幀=大久保明子

『暗号の子
宮内悠介 著
文藝春秋
定価 1,870円(税込)

 

 メールのやり取りをしたり、買いものをしたり、各種手続きをしたり、ネットが日常的に使われるようになって便利なことが増えました。一方で詐欺に遭ったりフェイクニュースに踊らされたりすることも。情報のやりとりをする場としてのネット空間は私たちの生活を変えつつあります。そして人間の内面──つまりは心のあり方にも影響を与えているようです。炎上とかブロックとか、猛々しさがさらけ出される場面があったり、あるいはほっこりする話題が拡散したり、色々と感情が揺さぶられることも増えました。

 宮内悠介の作品集『暗号の子』の前半にはネット空間と人間の心のありかたの関係を探る作品が並んでいます。表題作「暗号の子」はASD(自閉スペクトラム症)である理沙が主人公。現実の人間関係で失敗を繰り返す彼女が、ネット上につくられたASD仲間の社交場では「自分が自分のままでいられる」。安息の場を見つけたのです。

 しかし、匿名で集うメンバーの1人が無差別殺人事件を起こしたことから、理沙たちの自助グループはテロリズムの巣となっているのではないかと疑われ、世間から危険視されるようになります。理沙はどう対処し、どう生きてゆくのか。ネット空間ならではの人のつながり──ネット社会と、現実の社会との違いがくっきりと浮かび上がってきます。

 同様のことは「ローパス・フィルター」においてもうかがえます。表題となっているのはSNSにおける過激な意見や煽情的な表現を自動的に排除するアプリのこと。現在はプラットフォーマーが人工知能や人手を使ってやっているようですが、このアプリはそれをさらに普遍的にしたもの。SNSを使っていると、どうしても心がざわつくことがありますが、これを導入すれば「極論や罵詈雑言が減」るだけでなく、「ある主の静けさ、精神性のようなものが備わったように感じられ」る。そのせいで、このアプリは広く使われるようになりますが、一方、同じアプリによって「殺される」人たちも出てきます。意見や作品を発する場を失われ、生きる望みさえ奪われてしまうというのです。

 ネット社会において倫理的であることが、人々の基本的権利を奪う可能性があるのか。ひるがえって、現実社会においてはどうなのか。我々がふたつの社会で生きるようになったことで、新たに考えるべき問題が生まれていることが指摘されます。
 巻末に置かれた「ペイル・ブルー・ドット」は人工衛星のソフトウェアを開発するIT技術者が、宇宙好きの小学生に手を貸して超小型人工衛星を作ろうとする話。爽やかで痛快な感動があります。
 この他に5つの短編とあとがきからなる本書は、著者によれば「テクノロジーにまつわる話を集めたもの」。そのとおりですが、技術によって変わってゆく人と社会という幅広い視点を得ているところが見事です。

 小川哲『スメラミシング』(河出書房新社)はSFとノンSF全6編からなる短編集。現代日本を抉る2編のノンSFも面白いのですが、当欄の性格上ここではSFについて。
 広くお薦めしたいのは巻末の「ちょっとした奇跡」。せつなくて感動的で、どこかトンデモという青春SFの傑作です。


 設定がとてつもなく大胆。どこからか飛んできた天体が地球の2つ目の衛星となり、両者の引力のせいで地球の自転が止まったというのです。その結果、太陽をひと回りする間に、地表は昼と夜を1回ずつ迎えることに。こんなことが起こり得るかどうか、私にはわかりませんが、SFの設定ならばOKでしょう(これがトンデモの部分)。

 灼熱の昼も酷寒の夜も生存不可能なので、生き残った人類は両者の境目である「朝」と「夕」の部分を追いかけ続けることで、かろうじて生き延びています。移動は原子力を動力とする車両で、朝を追うのと、夕を追うのと1台ずつ、それぞれ約200名が乗り組んでいます。別々の車両で育った少年と少女が、軌道の定点にノートを残し合って交換日記をしているという泣かせる話なのですが、終盤で盛り上がるドラマが胸に迫ります。

 残る3編のSFは記録や証言を積み重ねることで、最終的に大きな物語が成立するという構成。時間の転移、異なる宇宙の成立、理想的文明の構築といった大きなテーマをじわっと描き出す手法が効果をあげています。

 2024年6月号で物語の幕開けを紹介した林譲治『知能侵蝕』(ハヤカワ文庫JA)が第4巻で大団円を迎えました。
 小さなパイプの集合体のような怪物が人間の首を切断することから始まった地球侵略劇は、背後にいるはずのエイリアンの正体も意図も不明なままじりじりと事態が進行。怪物が進化して人々を襲ったり、人間を解体、再構築してロボットのようなものに仕立て上げたりと、不気味で謎に満ちた展開が続きます。果たして、侵略者の目的は何なのか?

 本書については、ヒントが作品中に秘められているように思います。物語の最終段階で宇宙船が建造されるのですが、その名前が「不滅号」。スタニスワフ・レムの傑作『砂漠の惑星』の原題が「不滅」であり、そこに登場するエイリアンが無機的で、人間の理解を絶するものだったことを思い出しました。宇宙に存在する「知性」や「文明」はいかなるものなのか。知ることは可能でしょうか?