今月のベスト・ブック

NSA(上)
装幀=土井宏明(POSITRON)

『NSA』(上・下)
アンドレアス・エシュバッハ 著/赤坂桃子 訳
ハヤカワ文庫SF
(上・下)定価各 1,364円(税込)

 

 小説の面白さ/上手さについて考えてしまった。今月紹介する作品がそれぞれ違った魅力をもっていて、ひとつの尺度では測れず、この違いはどこから来るのか、思いを巡らせずにはいられなかったのです。

 きっかけとなったのは第9回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作『スター・シェイカー』なのですが、これは後まわしにして、まずはいちばんのお薦め『NSA』から。

 すごく良く出来た小説です。著者のエシュバッハは現代ドイツを代表するSF作家。2003年に『イエスのビデオ』が邦訳されています。2019年に書かれたこの『NSA』は、ドイツのSF作家達が選ぶクルト・ラスヴィッツ賞を受賞。ファンが選ぶドイツSF大賞でも二位に輝いた歴史改変SFです。

 チャールズ・バベッジが19世紀なかばに解析機関を完成させ(実際は設計のみ)、それから発達したコンピュータが20世紀初めには実用化、さらにはインターネット、携帯電話まで出現して、ヒトラー率いるナチスドイツがそれを駆使してユダヤ民族抹殺、第二次世界大戦完遂を目指すという、まあ、かなりめちゃくちゃな設定ではあります。

 しかし、読み始めるとそんな荒唐無稽さはどこかへ消えてしまう。国家機関のひとつNSA(国家保安局)が生々しく伝わり、そこで働く人たちの息遣いや願望をひしひしと読者は感じとることができるのです。これが小説の上手さ。細部のリアリティーと登場人物の肉付け、展開される物語の迫力、そしてそれらを語る文章の的確さ──こういった要素が渾然一体となって、見事な小説を読んでいるという満足感につながります。

 具体的なストーリーに踏み込みましょう。軸となる登場人物は2人。1人はオイゲン・レトケという独身男性で、髪はブロンド、青い目という典型的アーリア人です。もう1人はヘレーネ・ボーデンカープ。容姿に自信がない若い女性で、コンピュータプログラムを作成する仕事に打ち込んで毎日を過ごしている。この時代、プログラム作りは女性の仕事で、彼女たちは「プログラムニッター」(「編み子」とでも言えばいいのでしょうか)と呼ばれています。

 2人はともにNSAで働き、冒頭、ナチ親衛隊の全国指導者ヒムラーが視察に訪れた際、ヘレーネが作成したプログラムと、オイゲンの情報分析によって功績を上げてみせます。ドイツ占領下のオランダに潜伏しているオットー・フランクという男の家族の存在をオンライン上のデータから暴き出したのです。一家の娘アンネの書いていた日記は没収され、その場で焼却処分されます。

 暗澹たる幕開けですが、この後、この男女がたどる運命の浮き沈みはナチ政権の意向と情報戦略の拡大にともなってさらに激しく、厳しいものとなり、読む者の心を掴みつづけます。まるでナチスドイツ下での第二次大戦の体験を共有するかのよう。

 なお、この小説で駆使されるIT戦略は現在のそれを踏襲していて、ことさら奇をてらったものは見られません。しかしそこが新たな戦慄を生む要素でもあります。つまりここで描かれるのと同様のことを、現代、どこかの国がおこなっているのではないか、と。

 架空の物語でありながら現実以上に迫真的。そう思わずにはいられない傑作です。

 冒頭で触れた人間六度『スター・シェイカー』(早川書房)に移りましょう。人類がテレポーテーション能力に目覚め、移動・運搬手段としてその能力をフルに活用するようになった世界を描く超能力SF。主人公の少年・勇虎は他人の体内に移動するという「テレポート翔突事故」を起こし、PTSDのためテレポート不能になっている。そんな彼が、ある日、渋谷のゴミ箱に隠れている少女・ナクサを見つけたところから話は始まります。

 ナクサは、世界の改変にかかわる力を持っていて逃亡中。彼女を追う敵と戦うことで、勇虎は能力を取り戻し、重大な役割を果たすことに……。

 アニメやマンガでよく見られるセカイ系的な骨格をもつ物語といえそうです。キャラクターやセリフもアニメ/マンガ風で、地の文章は「真紅の唇から漏れたひとしずくの言葉は、その鈴のような響でもって彼を魅了した」といった美学で彩られている。馴染めない者にとっては読むのがつらいものがあります。

 にもかかわらずこの作品が魅力をもつのは、次々と披露されるアイデアによって物語が拡大して東京の一画から日本列島へ、そして地球全体、さらには宇宙空間へと視野が広がり、それにともなってテレポートのもつ意味も、社会のあり方の変貌から、宇宙が存在しつづけるかどうかという途方もない問題にまで及んでくるからでしょう。小説の上手下手とは別次元の、妄想力の爆発。それに驚き、あきれるのです。

 とはいっても、描かれていない同時代の人間や社会のあり方はほとんど伝わって来なくて、疑問も満開。この妄想力に緻密な想像力が追いつく日を楽しみにしています。

 ということで紙数が尽きてしまいました。同コンテスト優秀賞の安野貴博『サーキット・スイッチャー』(早川書房)と、うっとり嘆息のM・ジョン・ハリスンの古典的名作『ヴィリコニウム パステル都市の物語』(大和田始訳/アトリエサード)については次号送りということに。申し訳ありません。