今月のベスト・ブック

装画=GAS
装幀=坂野公一(welle design)

チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク
ジョン・スラデック 著
鯨井久志 訳
竹書房文庫
定価 1,485円(税込)

 

「教養小説(ビルドゥングスロマン)」という言葉を知ったのはいつの頃だったか?

 意味するところが「主人公が成長してゆく過程を描いた小説」だと教えられ、変な日本語だなあと思ったものでした。しかしまあそういう類の小説を指すには便利な言葉。ジョン・スラデック『チク・タク(森下註:この言葉が10回繰り返されます)』も教養小説に含まれるといっていいかもしれません。ただし、人間ではなくロボットの成長を描く──それも(人間的に)立派なものになるのではなく、悪く、ずる賢くなっていく一方の、なんとも困ったロボットSFなのです。

 物語は主人公のチク・タクが世に知られる有名ロボットとなった現在と、これまでの生い立ち(ロボットにこの言葉を使うのも変ですが)を交互に追う形で語られます。生い立ちの方から見てみましょう。

 デトロイトの工場で製造された1体の家庭用ロボットが、ミシシッピーの農場の大邸宅で荷解きされます。そこで最初に命じられたのは畑や厨房の仕事。ここまでは先輩のロボットに囲まれての日常でしたが、たまたま屋敷の食卓の給仕をすることになって人間の様子を目にします。その時を回顧してチク・タクは、「そこには人生そのものがあった! 20人もの紳士淑女が、それぞれ美しく着飾り、人間の喜びを語りあい、笑いあっていたのだ」そして「あの瞬間、わたしはこの人々について、できる限りのことを学ぼうと決心したのだ」と、書き記しています。

 しかしその後、彼が知ることになるのは人間の果てしない愚行ばかり。農場所有者は無意味な散財によって破産し、次に彼を買った退役軍人は、経営するパンケーキ店でアヒルの代わりにアルマジロの肉を売り、可愛いアヒルをベッドに連れ込んだ挙句に拳銃自殺。その次の所有者である判事は、集めたロボットをバールで破壊するのが趣味。運よく生き延びたチク・タクは派手なパフォーマンスで布教する人気牧師に拾われ、聴衆に混じってサクラを演じますが、不測の事態によって牧師が死亡すると、信者仲間の手で火星に送り込まれることになります。そして……。

 人間のどうしようもなさを見続けたチク・タクは、ロボットであるがゆえか、生命を軽んじ、法の裏をかき、人心をあやつるすべを身に着けてゆくのです。こういったおぞましい「成長」の過程が、下品で強烈なギャグとともに語られるのですから、読者としても、眉をひそめながらゲラゲラ笑ってしまうという難儀な体験を強いられることに。

「鉄腕アトム」の純真さの真逆をいくロボット一代記。これが現代文明の特質を表わしているように見えてくるのはどうしたことでしょうか。1983年英国SF協会賞受賞。

 短編集『わたしたちが光の速さで進めないなら』と長編『地球の果ての温室で』が共に好評で迎えられた韓国のSF作家キム・チョヨプの新しい短編集が邦訳されました。その『この世界からは出ていくけれど』(カン・バンファ、ユン・ジヨン訳/早川書房)からは作者の問題意識がこれまでよりも強く感じられます。あとがきには「わたしたちは(中略)それぞれが異なる認知的世界に生きている。(中略)その世界のあいだにどうすれば接触面(中略)が生まれうるのかというのが、この数年、わたしが小説を書きながら心を砕いてきたテーマだ」とあって、そのとおりの意欲作7編が収録されています。

 たとえば「ローラ」という作品の主人公ジンは視覚や聴覚、あるいは身体感覚などの個人的な違いをテーマにした《間違った地図》という本を書く。それは恋人であるローラが目に見えない「三本目の腕」をもっていると主張することを理解するためだったかもしれません。ローラはどのような生き方を選択するのか。そしてジンはどう対応するのか。

 何が正常で、何が異常なのか。その境目を見極めることは、人と人が、そして人類と他の生物や文明が理解し合うことの出発点になるのかもしれません。結びつきや触れ合いの根底を見つめた作品集。

 ジーン・ウルフ『書架の探偵、貸出中』(大谷真弓訳/早川書房)は、6年前に邦訳された『書架の探偵』の続編。ウルフは本書を執筆中の2019年、87歳で病没しました。当然、完結していないのです。実際、最後の方は草稿状態なのか、あちこち矛盾があるし、もちろん話も終わらないまま。

 にもかかわらず本国で出版され、こうして日本語になるというのは、著者の作品がいかに愛好され、待ち望まれていたかということの証左でしょう。意匠を凝らし、完成度が高く、濃密な味わいのするウルフ作品は熱烈な読者を擁しています。

『書架の探偵』は、作家そのものの複製(リクローン)が図書館の書架に収蔵されているという、皮肉で軽妙なミステリSF。今回は図書館どうしの取り決めで海辺の小さな図書館に送られた主人公のミステリ作家スミスが、病の床に臥す女性の依頼で、行方不明の夫を探す。これが主なストーリー。案件がほぼ片付いた後に、奇妙な話が展開してゆくようなのですが、それは唐突に途切れます。しかし、ここまででも十分楽しめるので、十分読む価値があると判断され、本になったのでしょう。謎に満ちていて、ユーモラスでエロチック。ジーン・ウルフ自身、ワクワクしながら執筆していたことが伝わってきます。