今月のベスト・ブック

装画=中山晃子
装幀=早川書房デザイン室

『キャンディハウス』
ジェニファー・イーガン 
谷崎由依 訳
早川書房
定価 3,850円(税込)

 

「記憶を外在化し、検索可能なものにする」──オビの文句を見て書店でこの本を手に取りました。私の好みのテーマで、SFのように感じられる。訳者が、作家でもある谷崎由依さんであることも食欲をそそりました。

 

 読んでみての感想は「予想以上」。アメリカの夢を俎上に載せた見事な小説でした。

 

 SFとしてのアイデアは、オビの言葉のように、個々人の記憶を電子信号として取り出し記録すること。これをクラウド化し、いつでも誰でも他人の記憶を共有する──別の言葉でいえば「盗み見る」ことができる社会が出現するのです。近未来というわけではなく、このサービスが始まるのは2016年に設定されています。つまり同時代の物語。

 

 1960年代から2030年代までランダムに行き来する14のエピソードから成っている連作短編集という形態をとっています。ある物語に登場する人物が別の物語でも言及されていたりして、全体は複雑なネットワークを形成しており、その関係を解きほぐしてゆくのも楽しい。

 

 登場人物の1人はルー・クラインという大物音楽プロデューサー。彼はネット配信が開始された際、「タダより高いものはない!」「お菓子の家を信用しちゃいけない!」と予見し、それが本書のタイトルの由来(のひとつ)になっているのですが、別の1編では、まだ若かった1965年、仲間たちと西海岸の森の中にあるヒッピーの聖地のようなところに出かけ、マリファナを吸い、音楽に陶酔します。そこではサイモン&ガーファンクルやヤードバーズの音楽がヒットしていますが、ルーがこのパーティーで出遭った若い姉弟の音楽的才能を見抜き、誰もが知る存在に仕立て上げるあたりから、我々の世界とは違うアメリカが始まるようです。その“もうひとつのアメリカ”で記憶共有システムが普及し、ほとんどの人がそれに参加する一方、「逃げ抜け」ることで関係を断つ人たちも出てくることになります。

 

 他にもさまざまな人物が登場します。記憶共有サービスを創始し、ビジネス界の寵児となる人物。南米の部族の研究から人間が親近感を抱く謎を解明した女性人類学者。すべての物事を定量化せずにはいられない青年……。極端ではあるものの、現代アメリカに生きる人たちの姿といっていいでしょう。彼らの望みや悩みを記憶共有という“装置”によって増幅し、鮮明化することで、アメリカとアメリカ人の現在が浮き彫りにされているように、私には読めました。

 

 著者のジェニファー・イーガンは1962年シカゴ生まれ。〈ヴォーグ・ジャパン〉によれば、大学に入る前にはモデルもやっていて日本でも仕事をしたとか。そして大学生の頃、若き日のスティーブ・ジョブズ(アップル創業者の一人)と付き合ったことがあり、それがこの作品にも影響を与えているらしい。『ならずものがやってくる』(2015年、ハヤカワepi文庫)でピューリッツァー賞、全米批評家協会賞ほかを受賞。

 

 小川哲『火星の女王』(早川書房)はNHKの放送百年特集ドラマの原作書き下ろし。

 

 2125年、人類は火星に進出し、半地下式のコロニーに総勢10万人が居住しています。ISDA(惑星間宇宙開発機関)の当初の計画では、費用は火星及びその周辺で採掘するレアメタルで調達し、いずれ植物を栽培、医薬品も現地で精製する予定だったのがうまくゆかず、開発を始めてから40年後、段階的に撤退することが決まります。13あったコロニーの一部解体も始まりました。

 

 そんな時、一体の探査ドローンが採集した物質に異常が検出されます。火星ではありふれた「スピラミン」という物質の結晶構造が時々、一斉に変化しているようなのです。光速を無視した同時構造変化。この未知の現象の報に接し、あるコロニーの運営を担当するホエール社のCEO、ルーク・マディソンは記者会見し、「新種の生命体を発見した」とぶち上げます。つまり「火星人を発見した」と。彼はこれを機に、火星が地球に隷属し、見捨てられようとしている現状を打破しようと目論んだのです。

 

 ここから始まる地球と火星の軋轢の中で生じるドラマを、何人かの人物にスポットを当てながら著者は描いてゆきます。

 

 まず、スピラミンの変化を発見したリキ・カワナベ。彼は地球以外にも生命が存在すると信じて火星での仕事に従事しています。次に、リリという少女。彼女は元ISDA火星支部長の娘で、事故のため失明するのですが、母親が地球に帰ってからも火星に留まり、今は地球観光に出かけることを楽しみにしています。そして、マルという女性捜査官。事件の少ないコロニー暮らしなので警察の仕事はパートタイムだったのですが、リリが誘拐されたことにより、寝る間もない忙しさに追い込まれます。白石アオトという青年は地球在住。リリの母親のもとで働き、リリ歓迎の準備を進めていたのですが、件の誘拐事件のため右往左往。そんな中で人類が火星に進出した理由の一端を知ることになります。

 

 惑星間の歴史的大事件が展開するわけですが、著者の筆が各人物に寄り添い、彼らの気持ちをわかりやすく伝えてくれるせいで、読んでいてさほど派手さを感じません。このドラマを映像で見るとどうなるのか。12月に予定されている放映が楽しみです。