今月のベスト・ブック

装幀=川名潤

『地図と拳』
小川 哲 著
 集英社
定価2,420円(税込)

 

 オケアノスはギリシア神話に登場する海の神。英語の「海 ocean」の語源となっていますね。

 古代ギリシアの世界観では、丸い大地のぐるりを海が取り巻かれていることになっています。つまり地の果ては海なのです。そういう意味では、オケアノスは見知らぬ世界への渇望を呼び覚ます何か――つまりユートピアなのかもしれません。

 小川哲の新作『地図と拳』の主要登場人物の1人の名は「須野明男」。逆から読むと「オケアノス」になります。

 須野明男は驚異的な能力の持ち主で、時間、温度、湿度、風力といった自然の尺度を計測器具なしで知ることができる「生きた自然計測器」なのです。こうした抽象的な数値は人類ならではの「発明」。自然科学が誕生する源となりました。

 明男の父はもともとは気象学者ですが、あることがきっかけで地図の研究に打ち込むことになります。満鉄(南満洲鉄道株式会社)から、満州の地図の1枚に描かれた島が実在するかどうか調べて欲しいと依頼されたのです。その報告書の書き出しに悩む彼は、次のようなフレーズを思いつきます――「私たちにとって満州とはオケアノスなのだろうか」。

『地図と拳』は満州をめぐる物語。日清戦争後間もない1899年から第二次大戦後の1955年までの同地を、須野明男を始めとする多数の日本人、中国人らとともに描きます。歴史的経緯はほぼ現実のとおり。日露戦争があり、満州国建国があり、日中戦争、太平洋戦争がある。そんな中で小説の中心となるのは李家鎮リージヤジエンと呼ばれる架空の土地。奉天と吉林の中間に位置し、西に鶏冠山、南には東州河が流れ、自然の要塞となっています。

 この李家鎮は話の途中で仙桃城シエンタオチヨンと改名されますが、「李」も「桃」も中国の桃源郷を思わせる文字ですね。ここまで来ると、作者の意図が見えてきそうです。満州の中央にユートピアとなるべき場所を設定し、その夢がどのようなものであり、どのように終わったかを描こうとしているのではないでしょうか。

 須野明男は李家鎮の都市計画に取り組みます。自然の背後にある諸事情を見てとることができる能力を活かし、建築家になったのです。とりわけ彼が力を注いだのは町の中心に造る李家鎮公園の建造。この公園こそが、ユートピアの、つまりはオケアノスの、運命を象徴しているといえそうです。

 明男の周囲には興味深い人物が目白押し。最初から最後まで活躍する「黒幕」細川、母の胎内で暴行を受け、右腕が不自由になった女傑・丞琳チヨンリン、職務に忠実(と本人は信じている)蒙昧な軍人・安井……。彼らの人生をたどり、明男が遺贈されることになる一振りの軍刀の運命を知り、さらには「地図」と「拳」が孕むさまざまな寓意を思い浮かべてゆく時、複雑な本書のもつ見事な構成が迫ってきて、目が眩みそうになります。

 デイヴィッド・ウェリントン『最後の宇宙飛行士(中原尚哉訳/ハヤカワ文庫SF)は、オビの惹句によれば『宇宙のランデヴー』を彷彿とさせる衝撃のファーストコンタクトSF!

『宇宙のランデヴー』といえばA・C・クラークが1973年に発表した名作中の名作。惑星ほどの大きさがある円筒形宇宙船「ラーマ」が太陽系にやって来て、人類はその正体を探るのに懸命になるという、これぞSFという醍醐味を味わったことでした。それを彷彿させる作品とあっては、読まないわけにはいきません。

 2055年、正体不明の天体が太陽系に飛来する。形も軌道も2017年に観測されたオウムアムアにそっくりだが、大きさは350倍。太陽に接近した後、自然な軌道ならば加速して遠ざかるはずが、この天体「2I/2054D1」は減速し、地球に向かい始める。これは人工物に違いないと見たNASAは、二十年来途絶えていた宇宙船の打ち上げを決め、4人の乗員を派遣する……。

 ということで2Iに接近し、紆余曲折あって内部探査へと進むことになりますが、その過程で乗員たちが遭遇する驚きと脅威とが本書の読ませどころ。その内容を詳しく記すことはできませんが、良い意味での〝B級感覚〟あふれる娯楽作となっています。

 梶尾真治『おもいでマシン――1話3分の超短編集(新潮文庫)は、著者ひさびさのショートショート集。梶尾さんの地元・熊本の高橋酒造のウェブサイトに掲載された作品の中から40編が精選されています。

 複数の人物がいる写真の説明で「一人おいて」と必ず飛ばされる男の話だとか、「致死率100パーセント」の医者を利用した完全犯罪計画だとか、風呂に入ると猫にされてしまう猫屋敷の話だとか、ユーモア、怪異、SF、ホラーとバラエティーに富んだ内容を、それぞれにふさわしい文体で提供する技は超ベテランならでは。

 そんな中で、人生のさまざまな場面において同一の美女と出遭う「忘れな草お姉さん」は「これぞカジシン!」と言いたくなるロマンチックな逸品。

 中学生の頃に星新一さんの『人造美人』と出遭って小説を書き始めたという梶尾さんにとって、ショートショートは「原点」なのだそうですが、似た形でSFに親しみ始めた人も多いはず。同窓会気分で、どうぞ。