今月のベスト・ブック

装幀=川名潤

『流浪蒼穹』
ハオジンファン 著/及川 茜・大久保洋子 訳
新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
定価3,190円(税込)

 

 今年初め、北京で新型コロナウイルス患者が出始めた頃、感染者の詳しい行動履歴が公表されて北京市民の大きな関心を呼びました──フリージャーナリストの中島恵さんによる1月21日付「Yahoo!ニュース」でのレポート。

 いつ、どこに行って、トイレに何回入ったかまで記されているのは、接触のおそれがある人に注意を喚起するためでしょうが、休日にレストランでの食事やショッピングを優雅に楽しむ女性銀行員がいる一方で、地方から出稼ぎに来て、夜は建設現場で働き、昼間は失踪中の息子を探して北京市内をさまよう中年男性もいるという、落差の著しさが市民を驚愕させたようです。そして多くの人の脳裏に「ある有名なSF小説の題名が思い浮かんだ」と、中島さんは書いています。

 そのSF小説とは「折りたたみ北京」。ハオジンファンの代表作といえる中編で、英語に翻訳されヒューゴー賞を受賞しました。市民の間にある格差を「都市を折り畳んで複数の街を同居させる」という、とんでもない設定のSFに仕立てあげています。『三体』の劉慈欣が中国SFを代表する男性作家とすれば、女性作家の代表はハオジンファンでしょう(性別にこだわる必要はないのかもしれませんが)。これまでに『ハオジンファン短篇集』(白水社)、『人之彼岸』(早川書房)といった作品集が邦訳されていますが、長編は今回の『流浪蒼穹』が初めて。著者の才能の豊かさと思索の深さを感じさせる本格的火星SFです。

 22世紀後半。地球の人口は200億に達し、人類は住居と資源を求めて火星に進出した。植民者たちは苦心してドーム都市を構築し、生存を確保。地球からの独立を宣言する。しかし、これを認めない地球との間で戦争が勃発。地球からの支援を失った火星は多くの面で不自由を余儀なくされ、生き延びるために独自の社会体制を編み出してゆく。

 この社会体制のあり方が本書の重要な読みどころ。火星で調達できるシリコンや鉄を利用して環境を整え、住居を提供する。地球と比べると圧倒的に少ない住民は、かつての故郷と対決するため一致団結する必要がある。さらには人々の知恵を集めたデータベースを構築して知識や富の偏在を防ぐ。自由は制限されるものの、階級差のない一種のユートピアが出現することになります。

 物語は、火星・地球間の戦争が終結して18年が経過、年代を経た宇宙船に乗って20人の火星人学生が帰還するところから始まります。彼らは地球で5年間の「留学生活」を送り、地球からの派遣団とともに戻って来たのです。折しも火星は新たな変革の時を迎えようとしている最中。小惑星を牽引して来て大量の水をもたらし、火星環境を大きく改変しようという計画が最終段階を迎えようとしているのです。これにともなって火星独自の社会体制はどうなるのか? 地球の様子(商業主義に染まった現代社会そのものといっていいでしょう)を見てきた学生たちは、硬直した火星のあり方に馴染めないものを感じ、ある行動をとることになります。

 主人公となるのはロレインという少女。ダンスを学ぶ18歳です。彼女の祖父ハンスは火星総督で、「独裁者」と呼ぶ者もいる。ロレインは自分が留学生となったのは祖父の贔屓によるのではないかと疑っています。また彼女の両親は事故で亡くなったことになっているものの、そこには謎がありそう。ロレインはハンスの意図や両親の死の真相を探ることで火星の社会体制の成り立ちを学びます。同時に、その体制がどのように変化してゆくかを目撃することにも。プロローグには「これは、最後のユートピアが崩壊する物語だ」とあります。

 繊細かつ重厚。読み応え十分のユートピアSFです。読んでいて私はル・グィンの『所有せざる人々』(ハヤカワ文庫SF)を思い出しました。ユートピアと俗世界、2つの世界を行き来するという点で共通していますし、個人の自由と社会秩序をどう折り合わせるかという問題意識もよく似ている。ただ、存在しないアナーキズム社会をル・グィンが描いているのに対し、ハオジンファンは中国を念頭に置いているのだろうという点で、両者は異なります。本書が描く火星は中国そのものとは大きく違っていることをしっかり見つめる必要もあります。作者は、グローバルな視点から祖国を見直すとともに、SFならではの思考実験の成果として火星社会を創造したのでしょう。社会と個人の問題を扱ったSFとして、忘れられない傑作となりました。

 残る紙数が限られてきましたが、楽しみな続編をふたつ──

 ひとつはマーサ・ウェルズ『逃亡テレメトリー』(中原尚哉訳/創元SF文庫)。人間嫌いでビデオドラマ大好きという殺人ロボット"弊機"が活躍する宇宙SF〈マーダーボット・ダイアリー〉第3弾。今回は宇宙ステーションでの殺人事件の謎に挑みます。

 もうひとつは小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ2』(ハヤカワ文庫JA)。宇宙漁業SFにして百合SFという異色作の「2」ですが、今回は故郷の巨大ガス惑星で女同士の愛を貫くことは困難と考えたテラとダイが逃避行を決断。が、いざ決行という時に思わぬ騒動が……。いちゃいちゃしながらも有能ぶりを発揮して世界の秘密を解き明かす2人。愛らしくて、痛快です。