今月のベスト・ブック

装画=引地渉
装幀=岩合重力+W.I

『非在の街』
ペン・シェパード 
安原和見 訳
創元海外SF叢書
定価 3,960円(税込)

 

 お気に入りの秘密の場所をもつことは素敵です。その場所があることで、平凡な世界がまるで違ったものに変化する。佐藤さとる『だれも知らない小さな国』はこのテーマの大傑作ですが、『非在の街』も似たような楽しみをもたらしてくれるファンタジー。

 

 物語はサスペンスタッチで始まります。ニューヨークの古地図販売店で働く主人公の女性ネルは、父親の不審な死に遭遇、ついで彼女にも危機が迫ってきます。どうやら1枚の地図が鍵を握っているらしい。かつて石油販売店で売られていた、何の変哲もない道路地図なのですが、執念深くそれを狙っている者がいるらしい。ネルの父親も所持していたのですが、死後、彼女が受け継いでいます。

 

 地図に隠された秘密とは何か?

 誰も出入りした形跡のない場所に出没するのは何者なのか?

 

 謎が深まるとともに、ネルや、父親と知人、それにネルが赤ん坊の時に焼死した母親までもが事件に関連していることが浮かび上がってきます。彼らはかつて親密な仲間だったものの、何か重大な事件が発生して別れてしまったらしい。小さな謎が集結して大きな謎を形成してゆく過程が見事。わくわくさせられます。

 

 問題の〝秘密の場所〟は、昔、仲間が事件を起こした小さな街なのですが、道路地図が果たす役割は、単にそこを指し示すだけではありません。街の存在理由そのものに関わっていたのです。そこがこの小説の最大の謎であり、驚天動地ともいうべきトリックが仕掛けられています。強引なストーリー展開に振りまわされ気味の登場人物たちが気の毒になりますが、心地よい秘密の場所があればいいなと夢見させてくれる、忘れがたい作品。

 

 著者のペン・シェパードは本書が長編3作目となるアメリカのファンタジー作家。デビュー作がSF、ファンタジーの分野で高く評価され、2作目もヒューゴー賞、ローカス賞に推されましたが、最終候補には残りませんでした。アーシュラ・K・ル・グィンの愛読者のようで、この作品でもル・グィンの長編『天のろくろ』や短編「コンパス・ローズ」が重要な役割を果たしています。

 

『ノンブル・シャッフル』(ハヤカワ文庫JA)は、ラベンダーの香りとともにタイムトラベルが起こるという2012年の学園SF『リライト』以降、『リビジョン』『リアクト』『リライブ』と立てつづけに4部作を発表した法条遥の10年ぶりの新作。

 

 作品の主要な内容は、童話「桃太郎」や「シンデレラ」、「かぐや姫」、「金の斧」(お前が落としたのはこの金の斧か? というやつですね)、さらには「浦島太郎」に突っ込みを入れ、意外な真相を暴くというものですが、そのための枠組みが凝りに凝っています。いったいどうすればこんな変テコな発想ができるのか、著者の頭の中を覗いてみたくなる奇想の数々。

 

 まずは現代日本に昔話の主人公が出現するところからして、変。1000人以上の編集者を集めた会場の壇上で総理大臣が、「この方が桃太郎氏だ」と紹介すると、お馴染みの恰好をした人物が出てくるのです。しかし、彼はぼんやりしているだけで、自分が何者なのかまったく記憶がありません。真っ白な本を抱えていますが、そこには『桃太郎』の物語が書かれておらず、白紙のまま。彼は何をすればいいかもわからないというのです。

 

 これでは世界から『桃太郎』という物語が失われてしまう、だから彼に自分の生き方を教え、本来の歴史文化を取り戻す必要があると首相は言います。つまり、これは歴史を正しい流れに戻すミッションの物語なのです(こんな紹介でついて来てもらえるかどうか自信がありませんが、とにかく続けます)。

 

 何もわからない人物に桃太郎の役割を納得させ、その通りに行動させる――そんな課題をどうやって成功させるのか。誰なら可能なのか。最初に白羽の矢が立ったのは、物語を人に届ける専門家である編集者だったのですが、応じる人はいませんでした。

 

 このままでは過去の歴史が失われかねないという危機的状況のもと、結局、首相秘書、出版社編集者、図書館司書、国語の先生という4人の女性が国会図書館の一室に集められ、桃太郎、シンデレラ、かぐや姫、金の斧の女神に、それぞれの本分を取り戻させることになります。

 

 4人の女性たちが昔話の矛盾点や不可解な点を指摘しまくるところが、読ませどころ。さらに浦島太郎や竹取物語の思わぬ「真相」を突き止めるところでは、そうなのか!? と笑いながら膝を打ってしまいます。今どき人気のないタバコが作品の中でやたらと吸われるのにも理由があるのでした。とんでもないアイデアがてんこ盛りのぶっ飛び小説です。

 

『水脈を聴く男』(山本薫、マイサラ・アフィーフィー訳/書肆侃侃房)は、アラビア半島の国オマーンの作家ザフラーン・アルカースィミーによる歴史ファンタジー。岩の奥や地面の底に流れる水の音を聴く能力をもつ男、サーレムの人生を描いています。

 

 乾いた土地を舞台に、命の糧である水を求める物語は、馴染みの薄いアラブの人々の暮らしと人生を伝えてくれて貴重です。詩人でもある著者の文章は力強くて美しく、時に神話の域に達する表現を味わわせてくれます。2023年度アラブ小説国際賞受賞。