今月のベスト・ブック

装画・扉絵=加藤直之
装幀=岩郷重力+W.I

『星の海を駆ける 新世代スペース・オペラ傑作選』
ジョナサン・ストラーン 編
中原尚哉 他 訳
創元SF文庫
定価 1,870円(税込)

 

 これは出色のアンソロジー。傑作揃いで、読んでいてワクワクが止まりませんでした。60年以上も昔、メリル編『宇宙の妖怪たち』だとかコンクリン編『宇宙恐怖物語』といった伝説的アンソロジーでSFのとりこになった頃を思い出したほど。

 

『星の海を駆ける』は「新世代スペース・オペラ傑作選」と銘打たれていますが、面白さは昔からのものを引き継ぎながら、現代的な宇宙像、人間観への目配りも忘れないということでしょう。スペースオペラというとどうしても大時代的なものを感じますが、そうした違和感を覚えることなく作品を堪能できます。

 

 冒頭に置かれたトバイアス・S・バッケル「禅と宇宙船修理技術」の幕開けは、ブラックホールを取り巻く事象の地平線に向かってデブリのみぞれが降りそそぐ光景。突き進む巨大宇宙船を護るシールドにデブリが衝突し、生じた圧縮波がオーロラとなって宇宙船の横を流れてゆきます。前方には金属で出来た星が宇宙船を従えるように移動中。この星と宇宙船には「肉形態」だったり「蟹状整備形態」だったり「謎めいたナビゲーション精神」だったりと、さまざまな「思考体」が存在し、互いに結合しあっているというのですから、なんだかよくわからないけれど、凄いことになっていることは確か。まさに宇宙の果てで見たこともない出来事に遭遇している気にさせられます。これぞスペースオペラ!

 

 物語は、ロボット整備士となって150年以上、星々の間を旅してきた「私」が、宇宙船の外郭で雇用主であるCEOと遭遇し、危険を冒しながら彼を救助するというもの。規則とのジレンマに悩みつつも、SF的トリックでなんとか乗り切り、めでたし、めでたし。厳密に質量を管理されたはずの宇宙船で、「私」が資源をちょろまかして隠れ家を造っているという設定も楽しい。

 

 設定の楽しさといえば、アレステア・レナルズ「ベラドンナの夜」の壮大さも特筆もの。人類が宇宙に進出した後、20万年がかりで銀河を周回して得た成果を披露し合う「千夜祭」が舞台となっています。出自によって集団意識が生じていて、それぞれが「オジギソウ系統」、「リンドウ系統」などと名乗っているという言葉遣いの感覚もユニーク。

 

 個人的にもっともハマったのはT・キングフィッシャー「金属は暗闇の血のごとく」。

「むかしむかし、あるところに」と、お伽話調で始まる2体のロボットの物語。ロボットを造った男は年老い、可愛がってきたロボット──ブラザーとシスターを手離す決心をします。自分に万一のことがあれば、保護者を失ったロボットたちは生き延びるすべを失うでしょう。さて、老人と別れたロボットたちがたどった運命とは……?

 人間の子どもと無骨なロボットがオーバーラップし、何ともいえないおかしみとサスペンスが醸し出されています。

 

 エイリアンとの、あるいは人類同士での戦いを扱ったものが多いのはスペースオペラの常ですが、そこにジェンダーやLGBTが絡むのが現代的。セス・ディキンソン「モリガン、光へと落ちる」は女性戦闘員同士のバディもので、剛と柔、際立ったキャラの対比が鮮やか。アーニャ・ジョアンナ・デニーロ「クイーンズスロートへの旅路」では、トランス女性が後輩を助けるために大活躍します。

 

 これら14編を選び抜いたジョナサン・ストラーンはオーストラリア在住。スペースオペラの歴史と作品を要領よく分析、紹介した序文もみごとです。

 

 樋口恭介『Executing Init and Fini』(早川書房)は興味津々たる1冊。ほとんどすべてをAIに執筆させたということで、作業工程の説明と本文テキストをひとつにまとめて作品としているのです。後の時代から振り返って見れば「AI黎明期の先行的作品」ということになるのでしょうか。

 

 作者によれば、AIに与えた指示(プロンプト)はおもに2つ。ひとつは「(任意のタイトル)というタイトルで、ポップでキッチュでナンセンスで、それでもどこかセンチメンタルでリリカルで文学的な(中略)小説を書いてください」。もうひとつは「(前略)英語圏の理系的知的エッセイを翻訳したような抑制的な文体で(中略)ポストモダン小説を執筆してください(後略)」というもの。それぞれ別の役割を担っており、「一部のエピソードの執筆および細部の調整は人力で行ったが、8割ほどはプロンプトによる指示のみで出力した」とのこと。

 

 全体の構想は、文字によって生じた宇宙に誕生した「僕(イニト)」がフィニーという少女と出逢い、ともに文字と格闘し、文字の生態を観察し、自分たちと文字の関係を見極めようとする。その過程でいくつものエピソードが収集され、短編集を形成している──ということでしょうか。

 

 要するに作者はプロデュースと演出と編集に専念し、実作はAIに任せるわけですね。とはいえ、どのような小説にするかという権限は作者のもの。生成されたテキストのどこに惹かれ、意味あるものとして採用するかで、作品の出来は左右されるでしょう。

 

 では、この作品ならではの面白さとは?

 それは制作手段と結びついていて、文字による記録や創作、人間の記憶などは、それらを生じさせた本人から独立して存在し得るか、というふうに私には読めました。