今月のベスト・ブック

装画=八木宇気
装幀=bookwall

『殺し屋の営業術』
野宮有 著
講談社
定価2,145円(税込)

 

 新宿のヨドバシカメラでオペラグラスを買って国立競技場へ走ってから34年、今また東京で世界陸上が開催された。

 今回は現場へ行く元気はなかったが、TV観戦に勤しむ日々。さすがに34年隔てると状況は変わるもので、何より驚いたのは男子の110メートルハードル。欧米と身長差のある日本人選手が活躍できる種目ではないと思われたが、何と村竹ラシッド選手が5位入賞。しかもメダルがとれなかったと大号泣する始末。選手層も厚く、2番手の野本選手も決勝まであと一息だったし、ここ何年かの躍進ぶりが光る種目と相成った。

 

 ところで光るといえば、今年は江戸川乱歩賞の評判がたいそういいようだ。野宮有『殺し屋の営業術』(講談社)である。

 凄腕の防犯カメラの営業マンがあろうことか、訪問先で殺し屋と遭遇、命乞いをする羽目になるという話で、いつもは辛口評でお馴染み、日本推理作家協会理事長・貫井徳郎も「この物語に惚れこみました」と手放しの誉めっぷりだ。

 

 どこがそんなに面白いのか、探っていく前にこの10年間の受賞作を振り返っておくと、まずは2014年の第60回下村敦史『闇に香る噓』から、第61回呉勝浩『道徳の時間』、第62回佐藤究『QJKJQ』と続く、今を時めく人気作家の怒濤の3連チャンが光る。社会派ミステリーと本格ミステリーの新たな融合を目指した下村作品を始め、どれもこれまでにないテーマ、手法を孕んだ野心作であったが、インパクトが強すぎたか、第63回は受賞作なし。

 第64回斉藤詠一『到達不能極』はSF趣向も織り込まれ、三強の流れを継ぐかに見えたが、続く第65回神護かずみ『ノワールをまとう女』、第66回佐野広美『わたしが消える』はオーソドックスラインに戻った。

 しかし、続く第67回伏尾美紀『北緯43度のコ―ルドケース』と桃野雑派『老虎残夢』は北海道警ものと中華武俠ものという特殊設定の取り合わせで注目を集めた。第68回荒木あかね『此の世の果ての殺人』も乱歩賞史上最年少受賞者による特殊設定もので、乱歩賞もいよいよ変わってきたなあと思わせて、第69回三上幸四郎『蒼天の鳥』は大正時代の実在の女性作家が主役。第70回霜月流『遊郭島心中譚』も幕末の時代ものだけれども、もう1作の日野瑛太郎『フェイク・マッスル』は週刊誌記者の潜入取材ものであった。そう、これを読めば作者が「週刊文春」のいわゆる“文春砲”をモデルにしているであろうことは明らかだろう。アイドルのドーピング疑惑といい、主人公の文芸志向といい、実に文春的といっていい。作者はそうした現実の暴露を軸に話をひっぱっていくところが興味深かった。

 

 実は『殺し屋の営業術』にも同じような興趣を感じた。

 その前にざっとストーリー紹介を。

 鳥井一樹はハウスパートナーズ社の凄腕営業社員。36歳。年収2000万円強。今日も今日とて朝7時から夜7時まで個人宅を回り7件の契約を獲得していた。彼が考える営業の才能には3つの要素があり、一つ目は継続力。二つ目は外面のよさ、そして三つ目は──空虚さ。彼の部屋にはソファと液晶テレビとインコのヨウム以外、何もなかった。

 9月の月間MVPに輝いたその日、鳥井は夜11時に訪問の約束をした笹塚邸を訪れる。出てきたのは不摂生な中年男。男は鳥井を家に上がらせないようにするが、それもそのはず、男は風間という殺し屋で、耳津という若手と組んで笹塚を殺しに来た。その現場にかち合ってしまったのだ。鳥井はそのまま山奥に運ばれて埋められそうになるが、そのとき鳥井は──これは商談なのだ、と自分に言い聞かせ、2人の説得にかかる。「ここで私を殺してもあなたにメリットはありません。それどころか、多大な損失を被ってしまう可能性があります」と。

 かくして2人の営業成績が芳しくないことを見抜いた鳥井はまんまと自分を売り込むことに成功するのだった。

 

 というわけで、『フェイク・マッスル』の文春砲と同様のものを感じたというのは、本作の場合、“闇バイト”である。こっちは殺しだからより危ないわけだけれども、犯罪の組織的な構造は共通していよう。本作は闇バイトの横行がヒントになっているのは間違いあるまい。

 

 それともう一つ注目はやはり鳥井のキャラクターだろう。年収2000万強の独身貴族ながら趣味一つ持たない空虚な男。本作はそんな男が生きがいに目覚めるノワールでもある。中盤、過酷な拷問を受けたのち、鳥井がノワールに目覚める場面。

 

 日常のすべてが退屈だった。どれだけ営業成績を上げても、称賛の拍手を浴びても、生の実感を覚えたことは一度としてなかった。物欲も、性欲すらもなく、ただ淡々と目の前のノルマに向き合うだけの日々。(中略)それが、今はどうだ。どう足搔いても達成困難な目標を突き付けられたとき、濃密な死の気配にその身を晒されたとき、鳥井はかつてないほどの高揚に包まれている。

 

 後半の宿敵・鷗木美紅とのコンゲームもいいけど、まずは鳥井がいかにしてノワールに目覚めたかを読んでいただきたい。