今月のベスト・ブック

装幀=城井文平

『滅茶苦茶』
染井為人 著
講談社
定価1,980円(税込)

 

 GW以降、街中からマスク姿が半減したという。油断は大敵、喉元過ぎればじゃないけれども、本当日本人って忘れっぽいんだから。忘れっぽいといえば、香港の民主化運動なんかも、いつの間にか過去のものとして忘れ去られているような。今月のベストミステリー選びも、まずはそんな忘れっぽい人々にガツンと一撃を喰らわす1冊から。

 月村了衛『香港警察東京分室』(小学館)がそれだ。正式名称を警視庁組織犯罪対策部国際犯罪対策課特殊共助係というこの部署、インターポール(国際刑事警察機構)の仲介で警視庁に設立されたものの、周囲からは香港警察の下請けとも接待係とも揶揄され、分室呼ばわりされているのだ。

 メンバーは日本、香港から各5名ずつ。水越真希枝警視とグレアム・ウォン警司をトップに対等な組織作りがなされ、今まで対応しきれなかった国際犯罪捜査に協力し合うというのが建前だが、裏では日中双方の様々な駆け引きがあると見られていた。物語はその分室設立以来、初の共助捜査事案であるキャサリン・ユーの確保に向けて動き出すところから始まる。ユー元教授は2021年に大衆を扇動して422デモを実行、多くの犠牲者を出した挙句、協力者を殺害して日本に潜伏中であるとのことが判明していた。

 月村といえば「機龍警察」シリーズだが、本書の分室のメンバーも警視庁特捜部の面々や龍機兵の搭乗員たちに劣らぬ個性派揃い。特に日本側の水越や七村星乃係長、山吹蘭奈捜査員、香港側のハリエット・ファイ主管といった女性陣にご注目。童顔で天然だが実は超やり手の水越を始め、独自のキャラで男性陣をリードする。彼女たちは読みどころでもある銃器活劇、肉体活劇でも引けを取らない。

 地道な聞き込みがしばらく続くのかと思いきや、突然血腥い闘いが始まる、意外性充分の展開。その迫力も日本ではあり得ないもので、スケール的にも「機龍警察」シリーズに比肩しよう。香港のノワール映画ファンなら、表題から『男たちの挽歌』等のスタイリッシュな演出を期待する向きも少なくないだろう。クライマックスの舞台に寺院を選ぶなど、その点でも著者は裏切らない。

 むろん、ただただ逃げ惑っているだけに見えるキャサリン・ユーにも秘められたドラマがあり、そこからやがて民主化運動の裏に隠された中国の残酷な謀略劇や日本の警察、政治家の狡猾なやり口も浮かび上がってくる。日本と香港の警察官が正義への信念と愛国心をめぐって葛藤するあたりもポイントか。つまるところどこからどこまでまるっと月村印の新シリーズということで、続篇にも期待。

 今月はこれにて決定かと思われたが、伏兵登場。それも染井為人『滅茶苦茶』(講談社)はコロナ禍を題材にした長篇だ。

 物語は2020年5月から、3人の男女の姿が描かれていく。東京で広告代理店に勤め気楽な独身生活を謳歌する36歳の今井美世子、群馬県の進学校に通う冴えない高2の二宮礼央、そして静岡県沼津市で3つのラブホテルを営む中年オヤジの戸村茂一。それまではそれなりに順調な人生を送ってきた3人だったが、コロナ禍をきっかけに歯車が狂い始める。友人の勧めでマッチングアプリを始めた美世子、下校時に不良と化した小学校の同級生と再会した礼央、国の持続化給付金の対象から外されてしまった茂一は、それをきっかけに転落の道をたどることになるのである。

 読みどころはまず、その転落劇のありさまだ。理想の伴侶にめぐり合えたかと思われた美世子も、不良少年のグループの輪に巻き込まれていく礼央も、馴染みのスナックで思いも寄らぬビジネスに誘われる茂一も、最初はスムーズな流れに身を任せていくのだが、遅かれ早かれ、それが間違いであることに気付かされる。しかしそこから即座に後戻り出来ないのが悪の道で、後戻りどころか、かえって深みにはまっていく羽目になるのだった。

 闇バイトを使った悪質な組織犯罪が連日のように報道されているが、本書の3人もそうした現代の闇の諸相を図らずも浮き彫りにすることになる。本書がコロナ文学の1冊であると同時に「ノワール群像劇」(吉田大助)の最前線をゆく1冊でもあるゆえんだ。

 それにしても3人が3人ともハンパない堕ち方で、こんな堕ち方をするくらいならいっそコロナに罹ってしまったほうがましと思えるくらい。かくして序盤から中盤にかけては3人の転落劇が交互に語られていくのだが、その堕ち方は滅茶苦茶というのとはちょっと違うかも。なるほど二宮礼央を不良の道に引きずり込む少年たちのキレ方はその言葉が合っているかもしれないが、美世子も茂一も滅茶苦茶な目にあうわけじゃない(いや、美世子の場合、充分滅茶苦茶か)。

 そもそもこの3人、別々の場所、別々の状況下でひどい目にあうわけで、接点がないし――などと、思っていると、終盤、トンデモないシチュエーションが用意されているのですね。著者はあらかじめプロットを立てるタイプではないそうなんだけれども、この見事なクライマックスの演出からすると、本書はラストから逆算して組み立てられたのではと想像したくなる。

 とまれコロナに罹らずとも、それ以上の辛酸をなめた人は確かにいるはず。今月はそんな人々の滅茶苦茶な悲喜劇を活写した染井作品にBMを進呈したい。