今月のベスト・ブック

装幀=坂野公一(welle design)

『兎は薄氷に駆ける』
貴志祐介 著
毎日新聞出版
定価 2,420円(税込)

 

 世間はMLB大谷選手の元通訳による違法賭博問題に揺れている。何せ不正送金額は20数億円、常識ではとてもついていけない金額だ。他人事ながらどうやって返すんだろう、と思いめぐらす今日この頃の小生である。

 今月のベストミステリー候補の1発目は、そんなM容疑者には心強く響くかもしれない真門浩平『ぼくらは回収しない』(東京創元社)からだが、ここで回収する、しないというのは賭博の借金ではもちろんなくて、ミステリーでいうところの伏線のことである。

 本書は第19回ミステリーズ!新人賞受賞作「ルナティック・レトリーバー」を含む5作を収めた短篇集で、順番からいくと最後になる同作は名門大学の学生寮で女子学生が亡くなり、密室状況の現場から自殺と見られたが、現役作家でもある彼女が今自殺するとは考えにくかった。3年近く生活を共にしてきた寮生たちの推理が始まる、というわけで、一応の決着はつくのだが、そこから何とも痛快な引っくり返しが始まるのだ。その引っくり返し役いわく、「(犯人は)んだよ。(中略)伏線なんて回収される保証はないんだよ」。現実は小説のようにはいかないんだという次第で、あたかもミステリーの世界を否定するかのごときアンチなテイストが面白い。

 街頭インタビューに答えたがゆえにSNSで炎上してしまった女子を救うべく観察力に秀でた男子中学生が立ち上がる冒頭の「街頭インタビュー」、TVのお笑い大会で優勝したベテランピン芸人が仲間内の祝賀会の席上で殺される「カエル殺し」と同様のシニカルな作風が続くが、亡くなった祖父の消えた蔵書の謎をめぐる「追想の家」や高校生のおれと敏感過ぎる陰キャの速水君との絆を活写した「速水士郎を追いかけて」は日常の謎系の快作と作風も多彩だし、さすが「新人賞二冠達成」作家、今後の活躍が楽しみだ。

 麻生幾『リアル 日本有事』(角川春樹事務所)はガラリと変わって、中国との今、そこにある危機を描いた軍事活劇。

 中国人民解放軍が台湾侵攻に向けて動き出したとの情報が防衛省に知らされる中、人民解放軍の女スパイと関わっていた造船企業の特殊船舶係長が変死。彼は防衛省と水陸両用装甲車の国産化事業を推進していたが、中国側の狙いは上陸作戦に向けての宮古列島の地勢データであることが判明する。その宮古島に隣接する神ノ島では年に一度の秘祭を控えていた。新任教師の糸村友香は幼馴染の与座亜美の娘たちの担任となり喜んでいたが、やがてその姉妹の妹がダイバー姿の不審な男を目撃。その姿を描いたスケッチ画は程なく上へ上へと報告され、中国の特殊部隊が潜入したものと分析されるが……。

 中国の台湾侵攻が動き出す中、人民解放軍の特殊部隊が与那国島でも石垣島でもなく、宮古島に潜入したのは何故か。目的不明なまま、陸上自衛隊も熊本の第8師団の情報小隊や長崎の水陸機動団、千葉・習志野の特殊作戦群の精鋭が宮古島に向かう。かくして戦争ならぬ隠密の前哨戦が始まるのだが、自衛隊は隊士の士気こそ高いが中国側の情報かく乱にあって対応に手間どり悲惨なことに。

 防衛庁の人事から自衛隊の組織、宮古島の地理、銃火器、軍用品に至るまで、いつもながらの微に入り細をうがつ麻生節が冴えわたるが、米軍がなかなか出てこないのでやきもきさせられたり、潜入スパイは誰なのか、フーダニット趣向にハラハラドキドキさせられたり、他にも読みどころは多々あり。

 今月は以上2作のどちらかでいこうかと考えつつ読み始めた作品にしかし、やられた。貴志祐介『兎は薄氷に駆ける』(毎日新聞出版)である。帯の惹句に「リアルホラー」とあるのでしばらく積読にしちゃったが、周囲から絶賛の声が届き始め、あわてて確かめたところ、冤罪テーマのリーガルミステリーだったという次第。面目ない。

 物語は警察の取調室から始まる。自動車整備士の日高英之は叔父・平沼精二郎を殺した容疑でベテラン刑事・松根明の取り調べを受けていたのだが、そのありさまが生々しい。この松根という刑事、昔の特高刑事を髣髴させる男で、英之の髪をつかんで頭を机に押し付けるなんて当たり前、しかも英之の話など聞かず自分の用意したストーリーを押し付けてくる。これぞまさしく冤罪の生成現場。

 一方、会社でリストラ請負人として働き、やがては自らもリストラされ現在失業中の垂水謙介は退職時に世話になった本郷弁護士からアルバイトをしないかと誘われる。平沼精二郎殺しの調査と証拠集めの依頼だった。実は15年前、日高英之の父・康信は同じ町内に住む老女を殺害、有罪になっていたが、本郷はそのとき康信の弁護を担当、彼の有罪に疑問を感じたという。謙介は本郷に協力することとなり、英之の恋人・大政千春と会う。

 英之対松根は松根の一方的な攻勢に終始するが、ここで警察を悪役にし、さらに後半、検察をそこに加える形で冤罪劇の構図をよりはっきりさせることに成功している。また、探偵役の垂水と千春も防犯探偵シリーズの榎本径のコンビを思わせ、前半の興を引き立ててくれる。そして後半の法廷シーン。次々と明かされる意外な事実にページおく能わず。全体的にはオーソドックスな作りなのだが、最後まで気が抜けず一息に読まされた。今月はこれにて決定!