今月のベスト・ブック
『同志少女よ、敵を撃て』
逢坂冬馬 著
早川書房
定価2,090円(税込)
今月の枕を何にしようか考えていたら、書評家の畏友・豊崎由美がTwitterで炎上しているという情報入手。動画サイトTikTokで活躍中の小説紹介TikTokerけんごを批判したというのだ。TikTokはスマホ向けの短い動画。豊崎社長(愛称)がそれを杜撰な紹介と斬ったところ、けんごがTikTok休止を表明。それに対してけんご擁護派が反発したという図式だ。小生、恥ずかしながらTikTokを見ないので、彼のことも知らなかったのだが、今や凄い影響力があるのね。文章書評の書き手には確かに衝撃的かも。小生も、もうひと踏ん張りせねばと痛感したが、何とか共存共栄を図れないものか。今後の動向に注目。
というわけでベストミステリー選びに移ると、今月はベテラン作品から、まず篠田節子『失われた岬』(KADOKAWA)は2組の夫婦の話から始まる。松浦美都子は夫の転勤先で知り合った栂原清花と親交を深めるが、信州に引っ越した清花夫婦に異変が。断捨離を始めたのか、生活がどんどん質素になり、ついには連絡を絶ってしまう。新興宗教にはまったのか。その後北海道への転居通知が届くが、娘の愛子から、そこにも両親がいないという連絡が入る。現地の漁師町へ飛んだ美都子が愛子と捜索を始めると、清花たちは岬へ行くといっていたらしい。ヒグマも出没するハイマツの岬には、かつて毒ガスを製造していた秘密工場があったという……。
岬に行ったのは清花だけではなく、彼女を感化した肇子という女性やノーベル賞を辞退した小説家もいた。かくて清花の捜索譚に続いて、肇子を追う起業家や作家の担当編集者のエピソードが連なり、徐々に岬の秘密が明かされていく。北海道で失踪といえば、奥泉光『死神の棋譜』の主人公が失踪した棋士を追って道央の廃坑道に潜り込むが、本書に登場するハイマツ岬の妖しさもただごとではない。中盤からSF、ファンタジー趣向に傾くかと思いきや、コロナ禍の世界にも通じるリアリスティックな近未来活劇の世界が開けていくあたりは、さすが各ジャンルに通じたオールラウンダー作家。エロ抜きの篠田版『石の血脈』(半村良の名作)ともいうべき、重層的かつ重厚なドラマを堪能させられた。
続く安東能明『蚕の王』(中央公論新社)は著者初のノンフィクションノベル。1950年1月7日未明、静岡県浜松市の北にある二俣町で一家4人が惨殺される事件が起きる。程なく容疑者が逮捕されるが、のちに死刑判決が覆った日本史上初の冤罪事件として知られる二俣事件である。話はまず若き日の著者の父がその現場に直面する場面から始まる。著者自身、二俣生まれの二俣育ち(現浜松市在住)、まさに地元の大事件だったわけだが、作家になるまで大きな関心を抱くことはなかった。それが最近、菩提寺に参った帰途、知り合いから事件関係者に会わせてもらうことになり、俄然執筆欲に火がついた。
事件の顛末を追った小説部は二俣署の吉村巡査が通報を受け、現場に駆け付けるところから幕を開ける。事件当時、警察は国家地方警察と自治体警察とに分かれ、捜査の実権は国警が握っていた。二俣事件の捜査を指揮したのは名刑事の誉れ高き、赤松警部補だったが、この男、至宝とうたわれる一方で拷問による取り調べで裁判沙汰になっている問題人物でもあったのだ。人呼んで「拷問王」!
吉村巡査は赤松率いる捜査班に立ち向かうものの、チームはある男を犯人として捏造する。この時期、静岡県では冤罪事件が多発していたが、それというのも赤松チームの暗躍によるものなのか。しかし、吉村のほかにも彼らのアンチはちゃんといた。かくて後半の裁判劇では冤罪を訴える名弁護士が登場するのだが、まさに事実は小説より奇なりを地で行くというか。冤罪を生むシステムの一部がまだ残っていることが恐ろしい。
3冊目は新人。逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)は第11回アガサ・クリスティー賞受賞作。クリスティーは本格ミステリーを軸に活躍した作家だが、本書は第二次世界大戦の独ソ戦を舞台にした、日本人が1人も出てこない戦争冒険小説である。
セラフィマはモスクワ近郊の山村で母と2人暮らしの18歳。狩りの名手だったが、モスクワの大学に進学が決まっていた。しかし1942年2月、運命は一転、村に現れたドイツ兵たちがパルチザン狩りを始め、住民を次々と処刑。母も狙撃兵の犠牲に。セラフィマは援軍の赤軍兵士に救われるが、美しい女隊長は冷酷に母の遺体に火を放つのだった。
村を、家族を失ったセラフィマが女隊長に連れていかれたのは、同世代の女が集められた中央女性狙撃訓練学校の分校。女隊長はその教官長イリーナだった。モスクワ射撃大会に優勝した娘、カザフ人の猟師、ウクライナコサックの娘、各地から来た生徒たちは皆似たような境遇の者ばかり。母の復讐を胸に秘めた、セラフィマの訓練が始まる。体の鍛錬、射撃訓練を始め、弾道学に政治教育と厳しい授業が続く中、生徒たちの間にも確かな絆が生まれていくが、最初の戦地は激しい攻防が続くスターリングラードだった。
そこから始まる人体破壊を伴う戦闘場面の凄まじさと狙撃場面の静謐な迫力。著者は戦争の無慈悲さを克明に描きつつ、戦時の女性差別や悲劇についても問いかけていく。いやはや、これが新人賞の応募作とは。選考委員の諸氏同様、小生も感服つかまつりました。