今月のベスト・ブック

アンリアル
装丁=bookwall

『アンリアル』
長浦京 著
講談社
定価1,980円(税込)

 

 春先から睡眠が乱れ始めて体調不良が続き、血便が出るに至って内視鏡検査を受ける羽目に。くそまずい下剤を2リットル飲み、肛門からカメラを入れられる苦痛やいかに……と思いきや、鎮静剤を使ったら意識がぶっとんでいるうちに終わってた。ホント、検査を始めますよ、という先生の声を聞いた次の瞬間には終わりましたよといわれたのだ。その間の数10分はきれいに飛んでいた。

 恐るべき麻酔力!

 前号で紹介した榎本憲男『サイケデリック・マウンテン』ではないけど、この調子なら自分の頭の中も簡単にいじられるのかも。というわけで、今月もまた洗脳絡みの作品を取り上げることになるのだが、その前に1冊。井上真偽『アリアドネの声』(幻冬舎)は巨大地震に襲われた架空都市での救出劇を描いたパニックミステリーだ。

 というと、よくあるパターンの話だと思われるかもしれないが、そこは独自の本格趣向で知られる著者のこと、設定に工夫が凝らされている。舞台となる「WANОKUNI」は国交省が立ち上げた都市開発プロジェクト、障がい者支援都市だ。主人公の高木春生は、ドローンビジネスのベンチャー企業で実地指導をしており、WANОKUNIのオープニングセレモニーにも参加していた。だがそこをM7.2の大地震が直撃、5層からなる地下都市にも大きな被害をもたらす。

 死傷者も数多く出たが、幸い行方の知れない要救助者は1名にとどまっていた。問題はその1人が地元県知事の姪で、有名なユーチューバーでもある「見えない・聞こえない・話せない」の三重障害を抱えた「令和のヘレン・ケラー」、中川博美だったことだ。

 緊急災害対策本部は春生の会社が開発した災害救助活動――とりわけ遭難者の発見に特化した最新型ドローン、アリアドネを使って彼女を捜し出し、シェルターまで誘導させようとするのだが……。

 通常なら地下に閉じ込められた中川博美の視点から描かれる脱出行が物語のメインになるところだが、本書ではそのありさまはドローンの機能を通してしか知ることが出来ない。一喜一憂するのは脱出者ではなく彼女をシェルターに導く側なのだ。高木春生が幼少時に救えたはずの事故で兄を亡くしたトラウマを抱えているとなればなおさらだが、普通の冒険小説とはそこが逆転していて面白い。読みどころは中川博美の救出劇は叶うのかというスリルだけではない。やがて彼女の行動からある疑惑が浮上してきて、後半はその謎解きも読みどころとなる。障がい者というテーマに直結するそのメッセージとともにラストのサプライズにもご注目を。

 というところで、長浦京『アンリアル』(講談社)に移ると、こちらはスパイ小説であるが、やはり普通のスパイものとは毛色がいささか異なる。主人公の沖野修也は職場実習中の19歳の警察官見習。警察学校時代に未解決事件を2件解決に導いたが、上からは推理遊び扱いされ、白い目で見られていた。それでも躍起になって手柄を立てようとしているのは、一刻も早く両親が亡くなった自動車事故の真相を突き止めようとしていたからだ。

 そんな彼にある日、警視庁本庁への辞令が下る。異動先は、内閣府国際平和協力本部事務局分室国際交流課二係。謎の部署の正体はスパイ機関――極秘行動の何でも屋だった。当面はインターンということで、まずは様々なスキャンダルの種になっている台湾の医薬品メーカー前社長の暗殺計画の捜査。彼は直属の上司、水瀬響子と組んで任に当たるが、水瀬は彼が密かに追っていたドイツ人殺しのホシにほかならなかった……。

 沖野はただ優秀なわけではなく、特殊な能力を秘めている。「危険が迫ると気配を感じ、殺意や敵意、憎悪を抱いている人間と対峙すると、その両目が光って見える」のである。それは血筋によるものらしく、両親の死にも関わりがあるらしいが、詳細は後半に。前半はそういう特質を持つ沖野の活躍ぶりが描かれていくが、台湾の前社長夫妻をめぐる謀略は思った以上に危険で、命を懸けたものに。

 続くミッションは、アメリカで数々の洗脳殺人を起こしていると思われる男がドイツの大学教授、しかも中年女性の姿で日本に入国したので、その動向を探れというもの。彼/彼女は中国に贈賄を続けている悪評高い実業家・津久井遼一らとともに東京の大学のシンポジウムに参加する予定だった。

 そこでは沖野は大学生として潜入することになるが、年齢的にはまさにドンピシャ。少年スパイというキャラクターでは、〈女王陛下の少年スパイ! アレックス〉シリーズとして知られるアンソニー・ホロヴィッツのアレックス・ライダーが思い浮かぶ。アレックスはMI6にリクルートされた14歳の少年スパイで、幼時に両親を失っているところも沖野修也と相通じるものがありそうだ。あちらはヤングアダルトもので、本書は大人向けといいたいところだが、スパイ組織の非情なありかたを批判して、随所で人道的な正義を貫こうとする沖野の姿勢には充分少年らしい倫理がうかがえよう。

 ちなみに昨今のスパイ小道具はミクロ化しており、皮膚の下や内臓にも隠せるらしい。沖野はそのため下剤を呑まされる羽目に。ご愁傷様。その努力を買って、というか、新シリーズの門出を祝って今月はこれにて決定。