今月のベスト・ブック

装幀=大原由衣
装画=玉井伸弥

『丹 吉』
松村進吉 著
KADOKAWA
定価1,870円(税込)

 

 澁澤龍彦に「マドンナの真珠」と題する初期短篇がある。あの名著『暗黒のメルヘン』にも再録されていたので、御記憶の方も多かろう。遺作となった『高丘親王航海記』でも〈真珠〉は、極めて重要なモチーフとなっていたが、思えばその発端は、この初期作品にあったわけだ。

 2021年5月、中国の澁澤研究家で翻訳者でもあるりゆう佳寧かねいが、この作品の元ネタと目される作品についての発表を行なった。その作品とは、ピエール・マッコルランの「薔薇王」と題する短篇だった。初期の澁澤が、しばしば仏文系の愛読作品からインスパイアされた作品をものしていることは知る人ぞ知る事実だったが、「薔薇王」に関してはノーマークだったと思われる。

 その問題作が、先ごろ刊行された〈マッコルラン・コレクション〉第2巻『北の橋の舞踏会/世界を駆けるヴィーナス』(国書刊行会)の巻頭作品として訳出された(永田千奈訳)。これは澁澤ファンには見逃せないニュースだろう。

 さて、注目の現物だが、話の組み立ては澁澤作品よりもずっとシンプルで、ワーグナーのオペラ『さまよえるオランダ人』を思わせる幽霊船と亡者たちの描写などは原典通りだが、船に拾われるのは、薔薇王と名づけられた赤子のみ、航空機墜落事故で生き残った3人の女たちは登場しない。幽霊船の乗組員には全員、日本人の名前が与えられている。

 澁澤が、何を加えて、何を省いたのか……たいそう分かりやすい構成になっているのでよろしく御一読のほどを。

 2000年代なかばから怪談実話界のトップランナーとして『セメント怪談稼業』『怪談稼業 侵蝕』を始めとする良作を書き継いできた松村進吉。その最初の長篇作品となる『丹吉』(KADOKAWA)は、意外や意外、血も凍るホラーでも、戦慄の暗黒小説でもなく、一読爆笑必至の、夢と希望と冒険心にあふれた妖怪ファンタジーだった!

 本書に帯文を寄せた芥川賞作家・円城塔氏が「いいキンタマ!」と折紙をつける松村の(どこで目にしたのかは知らないが……)本書は、前半第三章までが「怪と幽」に発表されて話題を呼んだのち、後続の章を一気に書き下ろして単行本化されたものである。

 舞台は作者の故郷で、現在も得意のユンボ(建設機械の一種)を振り回して、日々の糧を得ている現代の徳島市。重なる悪行の報いで、近在の弁天山(なんと全高6・1メートルの威容を誇る!)にある卑猥な形状の岩に長らく封じられていた化け狸(徳島名物!)の丹吉(かつては〈あか殿中でんちゆう〉の異名も……)は、汚名返上を策するプチ弁天(数ある弁財天様の中でも神格が下位の、まだ幼いローカルな弁天様)によって解放され、その手先となって、かずかずの悪行……ではなく人助けに乗り出すことになるのだが……。

 私が一読して、すぐさま連想したのは、泉鏡花晩年の名品「貝の穴に河童の居る事」(1931)だった。神々と妖怪と山野の禽獣と人間どもが混然一体となって、無心に踊り狂う……あの駘蕩たいとうとして窈窕ようちようたる汎神論的雰囲気のかすかな名残り香が、本書からは、確かに感得されたのである、行間に溢れ出す、持ち前のお下品さの彼方から……。狸に蛇に梟といったサブキャラたちも、思えば鏡花先生が、ことのほか好んだメンツではないか。

 松村進吉の意外な新生面を、ぜひともとくと御覧いただきたい。

 10月15日は、モダン・ホラーの大いなる先覚者・岡本綺堂の記念すべき150回目の生誕日だった。岡山の勝央美術文学館では、小中学生を対象にした怪談コンクール(すごいハイレベル!)の贈賞式と合わせて、記念式典が盛大に開催された。

 生誕150年記念出版の第3弾となる『江戸の残映 綺堂怪奇随筆選』(白澤社)も、担当編集者の驚異的な、渾身の頑張りのおかげで無事、式典開催に間に合わせていただきありがたきかぎり。本書は、綺堂先生が大好きなおばけ話を中心にセレクトされた初の一巻本選集、なのだが、巻頭には何故か、おばけとは無縁な磯部温泉に由来する「磯部の若葉」「磯部のやどり」の両篇が収められている。群馬県の磯部は、綺堂が気に入って、大正期に頻繁に滞在した名湯で、多くの代表作が、この地で執筆されている。今回収録の両篇は、地元ゆかりの〈赤穂浪士になれなかった男〉大野九郎兵衛の伝承にまつわる作品で、その凝縮された文体が見事。綺堂一流の語り口を満喫できること請合の名品である。

 お得意の江戸おばけ話は言わずもがな、人形愛に満ちた佳品や迫真の震災話など人間綺堂の魅力を知るのに最適の1巻と信ずる。

 最後に極上のエッセイ集を、もう1冊。

〈皆川博子随筆精華〉が、3巻目の『書物の森の思い出』(日下三蔵編/河出書房新社)をもって、無事に完結した。「苦手だと言いながら刊行のお許しをくださった皆川博子さん、凄まじい発掘力で大量のエッセイのコピーを揃えてくださった河出書房新社の岩崎奈菜さん」と巻末の謝辞にあるが、編者である日下氏自身の「発掘力」も人並み外れているわけで、日下&岩崎の最強コンビに迫られたら、皆川さんも「否」とはいえないだろう。その甲斐あってか、本書には、触れられること少なかった御尊父の心霊研究に関連する文章も復刻されており、貴重きわまりない。