今月のベスト・ブック

装幀=青柳奈美
装画=伊豫田晃一

『アナベル・リイ』
小池真理子 著
KADOKAWA
定価1,980円(税込)

 

 エドガー・アラン・ポオの著名な詩に登場する薄幸のヒロインの名前からタイトルを取った、小池真理子の最新長篇アナベル・リイが、ついに単行本として刊行された。
 うっかり夜中に本書を読み始めた私は、いくらも読み進まぬうちに、そのことを深く後悔する羽目に陥った。煌々こうこうと照明のともる、明るい室内で本を開いているにも拘わらず、隣室や窓外にわだかまる薄闇が気になって(あたかも本書のもうひとりのヒロイン悦子が、野良猫の寄ってくる窓辺の光景に、いち早く異変を感知するのにも似て……)気がつけば怖々こわごわと背後をかえりみてしまう……。こんなにも惻々と怖い読書体験は、かれこれ30年近く前、あの鈴木光司『リング』第1作に接して以来……まことに稀有なことである。

 ちなみに『リング』が、井戸の底から出現する怨霊という近世以来おなじみのモチーフを鮮やかに現代に蘇らせたとすると、さしずめ『アナベル・リイ』は、『怪談牡丹燈籠』さながら、恋しい男の寝間へ夜な夜な忍び入り、恋人を嬉々として黄泉路よみじへと誘う美女の亡霊譚の現代版とも云えようか。

 牡丹燈籠の今に変わらぬ人気の秘密が、無残な髑髏の正体を隠し、窈窕ようちようたる美女の艶姿あですがたで恋人の前に現れる娘ごころの妖しさにあるとすれば、本書前半で無残な突然死を遂げ、僻地へきちに土葬された千佳代の霊が、恋しい男の周囲にそこはかとなくまとわりつき、彼女が厭う相手を惨死させ、じわり、じわりと、唯一の親友だった悦子の間近にも忍び寄るくだりは、まさしくその現代版と申せよう。

 ちなみに作者は、本書を執筆するにあたって、現代英国の作家スーザン・ヒルによるモダン・ゴースト・ストーリーの傑作『黒衣の女』を意識しながら、筆を進めたという。英国の陰気な沼沢地に建つ城館(=うなぎ沼の館)を舞台に繰りひろげられる、我が子を奪われた〈黒衣の女〉の陰々滅々とした復讐譚と、純白のケープをまとった千佳代の(一途だが、その反面、ひどく無節操でもある)復讐譚……果たして、どちらのほうが罪が重いか軽いか……いろいろと考えさせられる物語ではある。『黒衣の女』を未読の向きは、ぜひ御一緒に!

 ちなみに、本書に先立って上梓された小池真理子のアンソロジー『ふしぎな話』と『私の居る場所』(ともに角川ホラー文庫)が、作者の短篇・掌篇・エッセイにおける怪奇幻想系の精華集であるとすれば、本書『アナベル・リイ』は、あの『墓地を見おろす家』以来の長篇における代表作に、文句なくランクインされることは明白だろう。〈美しくなければ、怪談ではない〉と、私は『ふしぎな話』の帯に綴ったけれども、まさしくこの言葉を、否応なく思い知らされる真の傑作が、ここに誕生したことを歓びたい。

 紀田順一郎荒俣宏……英語圏の怪奇幻想文学を本邦へ移入するにあたって、多大な貢献を成した両氏の仕事は近年、新紀元社と翻訳家/編集者の牧原勝志による「幻想と怪奇」誌のリバイバル・ムーヴメントによって、再び注目を集めることになったのは、ご存じの向きも多いだろう。

 われわれのように、第1次「幻想と怪奇」の絶大な影響下にこの仕事を始めた人間は、ついつい失念しがちであるのだが、最近になって、この分野に関心を抱いた若い読者にとっては、雑誌「幻想と怪奇」も、今回の〈怪奇幻想の文学〉シリーズも、共に生まれる前の世界の出来事であって、当然のことながらその書物としての現物に接することも、なかなか難しくなっているようだ。

 その意味で今回、〈新編 怪奇幻想の文学1〉として怪物(新紀元社)の巻が刊行されたことは、たいそう喜ばしいことと云わねばなるまい(まあ、どうせリニューアルするのであれば、未訳・未紹介の作品をもっと多くしても……というのは、最初のシリーズを擦り切れるほど読み込んだオジサンたちの身勝手なリクエストかも知れない……)。

 今回初めて邦訳された作品としては、エルクマン=シャトリアンの長めの短篇「狼ヒューグ」(池畑奈央子訳)が、折り目正しい人狼小説の古典的名作として、たいそう読み応えがあった。また、これは既訳のある作品だが、正体不明のパルプ・ホラー作家ジョン・マーティン・リーイの怪作「アムンセンのテント」(森沢くみ子訳)は、やはり迫力がある。後に映画『遊星からの物体X』としてリメイクされる現代性が窺われると共に、「名状しがたい」といった形容詞の乱発など、HPLからの臆面も無い影響が窺われる点も面白かった。是非とも全巻のつつがない完結を祈りたい。

 まっさらな新訳も良いけれど、時の流れに磨き抜かれた名訳の魅力にも、捨てがたいものがある。石川道雄訳ホフマン小説集成全2巻(国書刊行会)は、日夏耿之介(こう の すけ)一門の俊英として活躍した訳者が、気質的に相似たところの多いドイツの異才E・T・A・ホフマンの代表作諸篇を翻訳した精華を、上下2巻に集大成した好企画。かつて岩波文庫にも入った名作中篇『黄金宝壺』はともかく、今となっては入手の難しい諸作をまとめて出してくれたことには、感謝あるのみ、である。老いてますます盛んな某元局長の意気込みや、よし!(笑)石川によるホフマン紹介文としては、下巻末の「ホフマニアーナ」を、まずは一読すべし。