今月のベスト・ブック

装幀=堀川達也

『吸血鬼の匣
山本タカト 著
芸術新聞社
定価3,190円(税込)

 

 槐──「えんじゅ」と読む。元は魔除けの意味合いを有する木であることを、澤村伊智の最新長篇『ばくうどの悪夢』(KADOKAWA)で、久方ぶりに思い出した、忘れがたい恐怖の記憶と共に。

 あれは何年前だったか……。奥多摩方面の夜歩きに、物好きにも参画したときのこと。山を登って降りて、鉄道駅の近くまで辿りついた。お誂え向きに公衆トイレがあったので、休憩を取った。そこは分岐道で、あたかも目印のように、槐が植わっていた。そろそろ、出発しようかと、念のため点呼を取った(それなりの人数だったのだ)。女子トイレに「誰かいませんかー?」と呼びかけたら……「いませーん」。え? ちょっと待てよ……そんなことがあったのだ。

 メンバーの1人の某オカルト・ホラー作家曰く、「あそこは槐も植わってたしね……」。おいおいおい!

 で、『ばくうどの悪夢』である。これはタイトルにも暗示されているとおり、「夢」という霊的現象をめぐり二転三転……どころか四転五転六転、最後の最後まで予断を許さぬ大どんでん返しが続く途方もない物語だ。

 作者のホラ大受賞作『ぼぎわんが、来る』に始まる「比嘉姉妹」シリーズ、待望の最新作だが、なんと途中で野崎夫婦は惨死を遂げ、姉の鉄腕・琴子も昏々と眠り続け……まあ、大変な事態に見舞われるのだった(夢の中なら、何でもできる!?)。

 物語の背景には、いわゆる「黄泉の穴」をめぐる物語(そう、日本最古にして最恐のホラーとも噂される、あの話だ!)が、しっかりと根を張っており、どんでん返しの連続にも、然るべき説得力を付与している。

『ぼぎわん』と並ぶ作者の代表作と呼ばれるにふさわしい傑作の誕生を、祝福したい。
「『巌の真屋』はすなわち洞窟であり、その洞窟に長期にわたって忌みこもる暗い孤独生活が、幻想として根の国訪問の話を生み出すのだ」(西郷信綱『古代人と夢』より)
 昨年、創元推理文庫で『吸血鬼文学名作選』を編んだ際にも痛感したことだが、この「血を吸う化け物」に対する、われわれ日本人の反応には、一種独特なものがあると思う。端的に言ってそこには、西欧文化に対する憧憬の念が、エロチックな恐怖と分かちがたく結びついている気がするのだ。

 そのことを強く実感させてくれたのが、特異な画風で多くのファンを魅了してきた画家・山本タカトの単著『吸血鬼の匣』である。その「あとがき」には、次のように記されているのだった。

「12才になった年の夏も近いある日、教室の窓から差し込む陽の光に対して私の皮膚は微かなアレルギー反応を起こした。その後症状は少しずつ悪化し、以来厄介な体質になった事を思い悩むようになる。神経質になって陽の光を避けていたが、しばらくして友人がちょっと茶化すように「君の事が描いてあるよ。」と言って見せてくれたのが萩尾望都さんの「ポーの一族」だった。それは啓示とも言うべき決定的な出会いになった。」

 おお、「ポーの一族」! タカト氏と小生は2歳違いで、ほぼ同世代と言って差し支えない。あの画期的な耽美系漫画が、同時代の「陽光に背を向ける人々」に与えた影響は、計り知れないものがあった。

 本書は、そんなドラキュラの末裔たるタカト氏が、これまでに描きためてきた吸血鬼テーマの作品を厳選、凝った造本と、香気あふれる文章とともにまとめ上げた一書であり、ある意味、その画家としての神髄に迫る1巻となっているようにも感じられる。

 そして、なによりもその「吸血鬼の匣」というタイトル! かつて(かれこれ20年近い昔である)タカト氏に初めて表紙画をお願いした私のアンソロジーのタイトルは『伝奇ノ匣4 村山槐多 耽美怪奇全集』であり、続いて『伝奇ノ匣9 ゴシック名訳集成 吸血妖鬼譚』が、世に問われた。共に「匣」の字を書名に冠する二つの書物は(あたかも「吸血鬼」さながら!?)時の流れに抗って、いまこうして対峙しているのだった。
「おいでよ、ひとりでは、さみしすぎる」(萩尾望都「ポーの一族」より)

 国書刊行会の『定本 夢野久作全集』が、特大巻(なんと総ページ数1040超!)となる第八巻(補遺篇)をもって、このほど無事に完結した。あの「猟奇歌」拾遺や、能楽関係の稀少な原稿類を、丹念に拾い集めた一巻である。

 担当編集者・伊藤里和さんが朝日新聞の取材(田中ゑれ奈記者)に応えて曰く「精神病患者や障害者、路上生活者といった社会的弱者を多く描いた久作は、多様性を重視する今の時代にこそ面白い作家。この全集を新たな始まりとして、多くの読者に届けたい」とのこと……しかり、然り。

 噂に聞いていたとおり、今回の全集には、これまで童話の代表作の1つとされてきた「ルルとミミ」は、やはり収録されなかった。これは、発見者でもある編者の1人・西原和海氏が、久作のオリジナル作品とみなすのは、やはり難しいだろう……と判断されたためという。

 こうした厳しい編纂過程を経て、このほど完結した『定本 夢野久作全集』が、若い世代の大きな支持を集め、新たな久作像に結実することを、期待したいと思う。