今月のベスト・ブック

装幀=黒木香+ベイブリッジ・スタジオ
装画=波津彬子

『幻妖能楽集』
波津彬子
KADOKAWA
定価1,100円(税込)

 

〈能楽〉という言葉を辞書で引くと、おおよそ、次のように記されているはずだ。〈能と狂言との総称。平安時代以来の猿楽さるがくから、鎌倉時代に歌舞劇が生まれ、能と呼ばれた。猿楽本来の笑いを主とする演技は、科白せりふ劇の形を整え、狂言と呼ばれた。両者は同じ猿楽の演目として併演されてきたが、明治になって猿楽の名称が好まれなくなり、能楽と呼ばれることに。現在、観世かんぜ宝生ほうしよう金春こんぱる金剛こんごう喜多きたのシテ方五流派のほか、ワキ方三流(宝生・福王ふくおう高安たかやす)、狂言方二流(大蔵おおくら和泉いずみ)、囃子方はやしかた十四流がある〉(岩波書店版『広辞苑』等の項目を参考にしました)。

 波津彬子『幻妖能楽集』(金沢能楽美術館・山内麻衣子学芸員監修)は、能の主要な演目、全11篇をコミカライズして収録した画期的な一冊である。各篇ごとに、監修者の山内による、叮嚀で的確な解説が施されている。能の漫画化は過去にも例があったが、波津さんのような斯界の大御所が、本気で取り組んだ試みは、意外にも数少ない。

 能楽堂で開催される演能の席では、ついつい居眠りしてしまう……という向きも、適度に簡略化された漫画版ならば、すらすらと抵抗なく、その艶冶で幽玄な世界に入りこめるに違いない。

 ちなみに、本書に収録された作品群の主要な連載誌であった怪談専門誌『幽』(メディアファクトリー発売/平成の終わりとともに完全終刊)では、第19号で〈お化け好きに捧げる能楽入門〉という先駆的な特集を組んでいる。安部龍太郎の戯曲「黒髪の塚」や桜庭一樹と津村禮次郎の対談、安田登による入門インタビューなど、能楽初心者にも参考になる記事が満載。『幻妖能楽集』の監修者である山内も「境界に舞い遊ぶ蝶」と題する、能装束が孕む幻想性に着目した興味深い論考を寄せているので、本書の読者にとっても恰好の能楽入門特集となることだろう。

 そもそも能楽は、その主要なテーマが、この世とあの世の境界領域の往還にあり、必然的にその成り立ちからして、幻想文学的であると云い得る(だからこそ、怪談専門誌でわざわざ特集を組んだわけだが……)。能の世界に興味はあっても、敷居が高くて、なかなか踏み込み難いと感じていた向きにも、『幻妖能楽集』は、最適な入門書なのである!

 ちくま文庫の〈文豪怪談傑作選〉の後を受けた、注目の新シリーズ〈文豪怪談ライバルズ!〉が、今季の新刊『桜』で、無事に第1期全3巻で完結した。『刀』に『鬼』と、どこか不穏というか武張ったテーマが続いたあとに、優美な『桜』とは!? と、この並びを怪しむ向きもあろうが、いざ17篇の収録ラインナップを固めると、逆に全3巻のうち最も血腥ちなまぐさい一巻となったのだから面白い。

 そもそも〈桜〉という花は、かつて幻視の詩人・梶井基次郎をして、その下には〈屍体が埋まっている!〉と喝破かつぱせしめたように、本来的に、屍臭漂う不吉な植物なのだった。

 そのことは、泉鏡花の「桜心中」に始まり、梶井の「桜の樹の下には」、坂口安吾の「桜の森の満開の下」、萩原朔太郎「憂鬱なる花見」、岡本かの子「桜(抄)」と連なる、近代日本文学を彩った桜絵巻を眺めれば、たちどころに了解されよう。これに続く、石川淳「山桜」や中上健次「桜川」、赤江瀑「平家の桜」、倉橋由美子「花の下」といった諸作も、どこか不穏な妖しさをたたえて、読む者に、ある種の覚悟をいるかのようだ……。

 実は編者自身、漠然と予想はしていたものの、ここまで徹頭徹尾、血臭や屍臭がつきまとう一巻になるとは意想外の出来事だった。何はともあれ、鏡花の絶品「桜心中」の、金沢の象徴たる名園を舞台に、死者(予備軍ふくむ)と盲人ばかりが徘徊する、この上なく美しい花吹雪に、心ゆくまでその身を委ねてみていただきたいと、切に思う。

 2016年度のブラム・ストーカー賞を、今回邦訳された長篇『フィッシャーマン いさびとの伝説』(植草昌実訳/新紀元社)で受賞した新鋭ジョン・ランガン。そのページをひもとくなり、メルヴィル『白鯨』からの引用と〈キャツキル山地〉という、ある種の人々(HPLの愛読者って事ですが……)にとっては、符牒と化した地名が飛び込んできて、いきなり身がまえる次第と相なった。

 本書のメイン・テーマは……〈釣り〉であり、貯水池の建造計画である。え、貯水池!? そう、ラヴクラフトの名作「宇宙からの色」でも扱われていたテーマだ。愛する妻に先立たれた喪失感を、釣魚で癒やそうとする主人公の中年男は、やはり不運な事故で妻子を亡くした若い同僚を釣りに誘う。ふとした事から、通称〈ダッチマンズ・クリーク〉と呼ばれる釣り場にやって来た両者は、近くの軽食屋の料理人から、同地にまつわる無気味な逸話を聞かされて……。水妖譚ということで、お約束の〈やつら、、、〉も、出ますゾ。

 しかし本書を飾るカバー画──19世紀後半の風景画家ビアスタットえがく、荒れ騒ぐ海辺の光景──が、何かを想起させると気になっていたのだが、昨年日本でも公開されて一部でマニアックな人気を呼んだ映画『ライトハウス』だと、思い当たった。というのも本書の原稿を書くため、近所の店のカウンターでウンウン唸っていたら、佐川急便で荷物が届いた。それがあろう事か、『ライトハウス』のブルーレイBOX。あまりに出来すぎた偶然の悪戯に、唖然呆然としたことよ!