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エピローグ
 
 貸し切りになったレストランを訪れると、夜の東京湾が一望できた。
「お疲れ様です、小洗さん」
 入口の近くで待機していた、ミズクボギャラリーの新しいアシスタントが、凜太郎に頭を下げた。最近ミズクボギャラリーは、何名かのスタッフを追加で採用しており、海外のアートフェアにも意欲的に参加しているようだ。今日このレストランで、有明界隈のアート関係者を招いた親睦会を主催してくれたのも、水久保だった。手土産のワインを預けると、背後から声が飛んでくる。
「もう、やっと来た、凜太郎」
 席についていた富永姫奈子が手招きをしている。
「すみません、少し遅くなりました」
「美紅さんは?」
「まだオフィスにいます」
「えー。凜太郎が引っ張って連れてこないとダメじゃん」
 姫奈子は不満げに唇を尖らせた。
 前回のオークションのあと、シニアマネージャーに出世した美紅は、今は管理職を兼ねながら忙しく働いている。
 異例といえるような美紅の昇進には、じつは姫奈子が大きく寄与した。姫奈子がウォーホルの《一九二枚の一ドル札》を東オクの史上最高額で落札したおかげで、美紅は社内でも圧倒的な実力を見せつける形になった。あれほど美紅を毛嫌いしていた香織も、今ではおとなしく美紅に従っている。
「あ、そうそう。美紅さんから頼まれていたオファーシートを持ってきましたよ」
 凜太郎は鞄からファイルを出して、姫奈子に手渡す。
 姫奈子はその後もちょくちょくと美紅に会いにきたり、一緒に画廊を巡ったりもしているらしい。東オクのセールスだけではなく、広くアート市場に関心を持ちはじめていた。そんな姫奈子のことを、美紅は姉のように見守り、全面的にサポートをしつづけている。このファイルも、美紅が無償で紹介した老舗画廊から受け取った、作品の金額が記された資料だった。
「ありがとう!」
 姫奈子は感激した様子でファイルを受け取り、内容に目を通しはじめる。
 そのとき、水久保が腰を低くしながら現れた。
「忙しいなか来てくれてありがとう、小洗くん」
「美紅さんはまだオフィスなんだって」と、姫奈子がとなりから水久保に向かって言う。
 姫奈子は持っていたオファーシートを水久保に見せて、あれやこれやと作品についての相談をはじめる。水久保は自分のところの作品ではないものの、専門的な視点から的確なアドヴァイスができる。姫奈子も頼りにしているようだった。
「お二人、すっかり仲良くなられたんですね」
「姫奈子さんはコダマのだけじゃなく、うちの若手のことも応援してくれているんだよ」
 水久保が笑顔で言い、凜太郎は「へぇ」と目を丸くする。
 コダマの《ダリの葡萄》を自ら競り落とした直後、ミズクボギャラリーはしばらく厳しい状況がつづいた。落札額が高額になる分、オークション会社へ支払う手数料も膨らむからだ。だが幸運なことに、業界では一連の出来事が驚きとともに広く伝わり、ミズクボギャラリーは所属アーティストを大切にする人情味あふれた画廊だ、と評判になった。おかげで、ベンチャー企業の社長など若年層コレクターを中心に、新規顧客の開拓が進み、思いがけずギャラリーの経営も持ち直したのだった。
「本当に、よかったですね」
 姫奈子とわいわいと話していた水久保に、凜太郎は涙ぐみそうになるのを隠す。パーティには大勢のコレクターの姿もあった。
「そうだね。一時期は倒産寸前のところまで追い込まれたから。でも今は、なんとか軌道に乗ってるよ」
「コダマさんは元気ですか?」
「うん。彼も今は、お金の心配をせず、新作に集中しているんだ。今日も一応ここに誘ったけど、つぎの個展の準備が忙しくて、どうしても無理だって」
「会えないのは残念ですが、楽しみですね」
 水久保は笑顔で肯いた。
 レストランの奥には、安村の姿もあった。凜太郎は水久保と姫奈子に断りを入れて、安村に話しかけにいく。安村は相変わらず、周囲の関係者に講釈を垂れているが、身に着けるスーツはなぜか多少地味になっていた。
「ご無沙汰しています、安村さん。先日は、おめでとうございました」
 声をかけると、安村は照れ臭そうに頭に手をやった。
「小洗さんじゃないの。ありがとう。これで、妻との関係も少しは前向きにやり直せるといいんだけど」
 安村は不落札となった藍上潔の《無題》の結果を真摯に受け止めたらしく、しばらく顔を見せなかった。ところが、いつのまにか別の作品をキャサリンズに持ち込んでおり、アイザックが持ち前の手腕であざやかに商談をまとめてみせたという。結果そこまで高額で売れたわけではないものの、離婚は免れたようだ。
「佳代子さんとはどうですか、その後?」
「事件直後は、離婚寸前だったんだけど、誠心誠意、謝りつづけて今に至るよ。正直、新しい作品を買いたくてうずうずしているけど、当分は妻のために我慢だね。売ることはあっても、買うことはしません」
「そうしてくださいね! ちなみに、今日安村さんがここに来ているのは、奥さんも承知しているんですか?」
「もちろんさ。娘の弁当作りも含めて家事を全部やって、なんとか一回分、来るのを許してもらった感じだよ」
 古い言い方をすれば、すっかり尻にしかれているようだ。夫婦の関係性だけでなく、安村自身もなんだか変わった。前のような成金っぽさがなく、親しみやすい。そして、今の方がずっといい。
「そうだ、このオークション、知ってる?」
 安村はジャケットの内ポケットからスマホを出す。
 画面にうつっていたのは、見覚えのある壺の欠片だった。かつて壺だったとかろうじてわかる体裁を保った、十センチほどの欠片だ。
「もしかして、熊坂羽奈さんの贋作の?」
「その通りだよ! すごいと思わないかい? 今度、都内のギャラリーで小規模なオークションにかけられるらしいんだ」
「はー、そんなことが」
 あのオークションの日、羽奈は警察に連れていかれたあと、すべての罪を自白したが、贋作として売り出されたあと十何年も経っているために、時効が成立していた。よって法的には一切罪を問われず、爆破予告の件についても、うやむやに終わった。
 偽ピカソの壺の持ち主だった西野は、結局、訴えを起こすべきは熊坂羽奈ではなく、池岡なのだと気がついたようだが、実際に動きはないままだ。西野としても、贋作であることを受け入れたとたんに愛着を失ったのと、結果的に十分すぎる保険金が舞い込んだので不服はなかったのだろう。東オクは社長の意向で、偽ピカソだと見抜けなかった責任を真摯に受けとめ、羽奈への被害届を提出しなかった。
 さらに、もうひとつ意外なことが起こった。
 羽奈が偽ピカソの壺を破壊する瞬間をうつし、「すべての創造は破壊からはじまる」というピカソの名言をテロップで入れた動画が、ネットで拡散され、アーティスト界隈を中心に大きな話題を呼んだ。その壺は、贋作師自らによって破壊された贋作、ということで一部の関係者に面白がられ、なぜか神格化までされたらしい。奇妙にも、こうして別のオークションで転売されるに至ったようだ。
「羽奈さんとしては、こんなつもりはなかったでしょうけどね」
「つくづく才能のある人だね」と、安村は知ったような顔で言う。そういう問題じゃないのでは、と凜太郎はモヤッとするが、今回は偽物前提で取引されているので、羽奈もある程度は納得できるような気がした。
「おっと、いけない。そろそろお暇しなきゃ、妻に叱られる」
 安村は腕時計を見ると、慌てた様子で鞄を肩にかけなおし、まわりに挨拶をしながらそそくさと去っていく。レストランの入り口まで出て、その姿を見送りながら、凜太郎はホッと一息ついた。
 凜太郎は相変わらず、美紅のアシスタントとしてサポートに徹しながら、新しい顧客層の開拓や作品の発掘など仕事の幅も増えている。前回のセールスでは、美術オークションの楽しさより恐ろしさの方を強く味わうことになったが、東オクで頑張りたいという決意も固まった。
「なにぼんやり突っ立ってるの」
 一日激務をこなしたとは思えない、華麗なる立ち姿の美紅がこちらを見ていた。反射的に背筋が伸びて、「す、すみません!」とつい謝ってしまう。まだ全然慣れない。
「さぁ、行くわよ。ぼんやりしている余裕はないから」
 光に溢れた店内へ入っていく美紅のうしろ姿は、今日も神々しかった。

 

(了)