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 第一章 ラブ・アンド・マネー(承前)



 受付の前で待っていた姫奈子は、前日会った彼女とは、どこか別人のようだった。服装やメイクは変わらないが、攻撃的な顔つきではなくなっている。「話があるということだったので」という言い方も、喧嘩腰ではなく、反省しているような気配さえあった。
 美紅はいつものお辞儀をすると、こう切りだす。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます。じつは今朝、富永響子さまがここにいらっしゃり、今回の依頼はキャンセルしたいとおっしゃいました。一度、姫奈子さまご本人から、お考えを伺いたいと思いまして」
 姫奈子はどこか迷ったように、視線を逸らすと、小さな声で訊ねる。
「あの作品、もう一度見てもいい?」
「《一九二枚の一ドル札》ですね」
 内覧会の会場はすでに閉じられていたが、三人で移動する。美紅の指示で、凜太郎は特別に警備室に頼んで鍵を開け、照明を点灯させた。他に誰もいない静まり返った空間で、もっとも目立つ場所にある《一九二枚の一ドル札》が、堂々と光を浴びる。
 ウォーホル作品は市場に数え切れないほどあり、わけても版画はあふれている。しかし本作は、デザイナーからポップ・アーティストに転身したばかりの、もっとも挑戦的だった三十四歳のときにつくられた。だから今回のセールスの目玉として打ち出され、落札予想額も一千万円という高額だった。
「姫奈子さまは、なぜこの作品に興味を持たれたのです?」
 作品と向き合っている姫奈子に、美紅は訊ねた。
 モノトーンとはいえ色の濃さは統一されていないので、一九二枚の紙幣はまるで川底に沈もうとするように、揺らいで見える。
「響子さんはね、私の本当の母親じゃないの」
 凜太郎は息を呑む。自分はまったく誤解していた──。
 姫奈子はこちらを見ないで、作品に語りかけるようにつづける。
「本当のお母さまは、私が五歳のときに亡くなった。お母さまは本を読んだり、美術館に行ったりするのが、好きな人だったそうよ。遺品には、たくさんの書籍があった。そのなかでも、多く所蔵していたのがアンディ・ウォーホルの画集だった。日本語だけじゃなくて、海外から取りよせた分厚いカタログも含まれていたわ」
「特別な存在だったわけですね」
 美紅に肯いて、姫奈子はつづける。
「ウォーホルの作品は、私にとって、お母さまの象徴なの。もう死んでしまって、会えなくなった大切な人。ウォーホルが表現した、数々のアイドルと同じよ。だから、重ねずにはいられないの」
 凜太郎は代表作《マリリン》のシリーズを頭に浮かべた。
 あまりに有名な、現代の《モナ・リザ》とも呼ばれる名作だが、じつは制作のきっかけはマリリン・モンローが不可解な死をとげたことだった。ウォーホルはその後も、四十二歳という若さで亡くなったエルヴィス・プレスリーや、暗殺されたケネディ大統領の妻、ジャッキーなど、自殺や不幸な死に方をしたスターやセレブ、その身内を作品にした。それらは〈死〉のシリーズと呼ばれる。
 絵のモデルたちに共感を寄せずにいられなかった幼い姫奈子のことを想うと、凜太郎は胸が潰れる。実際、凜太郎もウォーホルに共感するところがあるからだ。
 ウォーホルは比類ない才能に恵まれながら、コンプレックスの塊のような人物だったという。いじめられっ子で、鼻の整形手術をしたことがあり、自分の容姿や出自がとにかく嫌いだったとか。
「私ってね、今の家族とは家族らしいことをした記憶がないの。そのせいか、死んだお母さまへの憧れがどんどん大きくなって、想像を膨らませるようになった。とくにウォーホルの作品を見ていると、死んだお母さまが……いえ、死ぬこと自体が、身近に感じられる。怖くなくなる。いつ死んでもいいって」
 姫奈子の口調には、本当に、死を切望しているような気配があった。
「お言葉ですが」
 そう、きっぱりと遮ったのは、美紅だった。「私の考えは少し違います」
「違う?」
「おっしゃる通り、ウォーホルの作品には、自分という存在の不確かさや、死への恐怖や関心がつきまといます。事故現場、葬儀場、原子爆弾、電気椅子。ウォーホルはとりつかれたように、死にまつわるイメージを作品に転写しました」
 そこまで話すと、美紅は一呼吸おいて、姫奈子に向きあった。
「しかし、ウォーホルが本当に表現したかったものとは、死ではなく、生ではないでしょうか? 死をテーマにしていても、結局、ウォーホルは生きることや人間そのものを賛美しているように、私には思えます」
 姫奈子はどこかムッとしたように、眉をひそめて訊ねる。
「なにを根拠に?」
「作品を見て、私はそう感じます。ウォーホルのつくるものには、重たさや暗さがありません。明るさしかないと言ってもいいでしょう。多くの人が、彼の作品をただポップでお洒落だと誤解してしまうほどにです。それは、ウォーホルが人間を、人生を、生きることを肯定している証拠です」
 姫奈子の頬が、少しずつ紅潮していく。美紅はつづける。
「たしかに生きることはつらいですし、人は死を恐れ、死に憧れる、不確かな生き物です。でもウォーホルは、そういうところすらも受け入れ、作品として魅せている。いつも彼の作品に滑稽さや親しみやすさがあるのは、ウォーホル自身が優しい目で人を見ているからに他なりません。そう考えれば、ウォーホルが表現する今は亡き人々は、悲しんだり怒ったりする私たちを、天国からあたたかく見守っているように思えてきませんか」
 姫奈子は黙って、作品を見つめていた。
 その目には、いつのまにか涙が溜まっている。
 少し待ってから、美紅はやわらかい口調で訊ねる。
「姫奈子さんが、わけても《一九二枚の一ドル札》にこだわるのには、なにか理由がありそうですね」
「……まったく嫌になるわ。あなた、鋭すぎるから」
 鼻声で毒づきながらも、姫奈子は咳払いをして素直に答える。
「お金を表現してるからよ。これまで父は、私にお金だけは惜しまなかった。それが父なりの愛情表現だと、私はずっと思おうとしてきた。そうであってほしいと願ってきた。だから今度は私が、お金を投入することで、ウォーホルへの愛を証明したい。愛されなかった私でも、誰かを愛せるんだって証明したい。他ならぬ自分のために。その愛には、お金を表現したこの作品がふさわしい気がするの」
「少々、短絡的かもしれませんね」
 美紅はにっこりとほほ笑んで指摘するが、刺々とげとげしさはなく、むしろ姫奈子の決断を応援しているように聞こえた。
「うるさいわね! 自分でもわかってるわよ、私は教養もないし。そもそもお金で愛情表現するなんて間違ってるものね。もっと言えば、私が使おうとしているお金だって、自分が苦労して稼いだものじゃないし。間違いだらけよ」
「いいえ。短絡的であっても、間違ってはいません」
 姫奈子は驚いたように、美紅の方を向いた。
「ウォーホルはお金について、こう言い残しています。『お金はお金。苦労して手に入れたお金か、楽をして手に入れたお金かは問題ない。僕はどちらも同じように使う』と。それに、ときにはお金でしか愛を証明できないことも、あるんじゃないでしょうか? 少なくとも私は、自分にお金を使ってもらうことに、相手からの深い愛情を感じます」
 姫奈子は視線を《一九二枚の一ドル札》に戻した。
 美紅は「それに」と少し声を低くして言い、姫奈子の目を見て言う。
「ここだけの話、この作品をもともと所有なさっていたコレクターの方は、長年、ご子息と疎遠になっておられました。しかし生前、この作品を前に、私にこうおっしゃいました。自分は息子に自らのコレクションを譲ることで、最高の愛情表現をしたい、と。その方が亡くなったあと、私からご子息にそのことを伝えると、号泣しておられました。私には、親子の詳しい胸中はわかりませんが、お金による愛情表現も立派に存在します。このたび、ご子息は管理の問題上、東京オークションに出品なさいますが、私どもは元所有者だったご家族の愛情を預かった分、しかるべき相手にゆだねたいと考えております」
 姫奈子は息を呑んだ様子で、涙を素早く袖で拭いてから、美紅の方に向き直った。
「……いいの? 私で」
「もちろんでございます」
「二流なんでしょ、コレクターとして」
「それは、売り言葉に買い言葉でございます」
「なにそれ!」
 お互いに揶揄しながらも、二人の女性のあいだには、今の時季の風のようにやわらかな空気が生まれているのが、凜太郎には不思議だった。

 

 (第9回につづく)