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第一章 ラブ・アンド・マネー(承前)
 
 
 
 化粧室から出ると、レストランの前で一人の男性がスマホで通話をしていた。流暢な英語だった。数ヵ月間の語学留学をした程度の姫奈子では、到底聞きとれないネイティブのくだけた英語である。しかし顔立ちは、アジア的でもある。
 パープルのスタイリッシュなスーツに身を包み、高級な香水がきつく漂ってくる。どこか日本人離れしたその男性が、ふとこちらを見た。
 ちょうど通話を切って、笑顔になる。
「富永さま、ですね?」
 いきなり名前を呼ばれ、面食らう。
「私はアイザック・ホワイト。キャサリンズの東京支店長です」
 キャサリンズ──東京オークションに問い合わせる前に、念のため他も調べると、真っ先に出てきた会社だ。キャサリンズは欧米を拠点にする世界的企業であり、一流の名画や現代アートの傑作を競りにかけて、落札最高額を更新しつづけてきたらしい。どうせなら信用度の高いところがいい。ウォーホルの《一九二枚の一ドル札》が出品されるのも、東オクではなくキャサリンズならよかったのに。
 目の前でかすかにほほ笑みをたたえるアイザックという男も、エネルギーに溢れ、華やかなオーラを放っている。
「どうして私の名前を?」
「あなたのお父さまとは、以前、お会いしたことがあるのです。今回、お嬢さまが東京オークションで入札なさるというお噂も、耳に入っておりました」
「そうでしたか」
 もう知られているんだ、と姫奈子は少し驚く。キャサリンズにはあちこちから情報が集まるという評判は本当だったのだ。
「キャサリンズも現在、日本のアート市場を開拓しており、日本支店を置いたばかりでございます。近くセールスも予定しているので、カタログをお送りしてもよろしいでしょうか」
「……ええ」
「よければ、オフィスにも遊びにいらしてください。富永さまには、とっておきの作品をご案内させていただきますよ」
 気さくに言って、アイザックは手を差し出した。姫奈子は自然と握手に応じていた。
 
 *
 
 午前十時、凜太郎がギリギリで出社すると、この日もすでに美紅の姿があって、凜太郎はぎくりとする。
「お、おはようございます」
 今朝の美紅はみたらし団子を食べているが、その表情は険しく、抱えている複数の商談が順調ではないのだろう。凜太郎は緊張しながらパソコンを開き、しばらく黙々と事務仕事を片づけた。
「昨日の会場なんだけど」
 とつぜん声をかけられ、凜太郎は慌ててメモを手にとる。
「はいっ」
「愛作がいたわね」
 ホワイト愛作アイサクという日本名を聞くたび、本人のエレガントな風貌とのギャップがあって、凜太郎は笑ってしまいそうになる。
「申し訳ありません。まさか同じホテルで、キャサリンズがパーティをするなんて。うちの方が早く予約したとはいえ、確認不足でした」
「いいわよ、そんなに目くじら立てなくても」
「そうでしょうか。でもお客さまを横取りされたらと思うと……富永さまとか」
「フッ、心配性ね」
 美紅は歯牙にもかけていないらしい。
 ホワイト愛作は、アメリカの名家出身の父と、日本人の母という両親を持つ。母親の家系は明治の昔から芸術家が多いらしい。大手外資系のキャサリンズで敏腕スペシャリストとして活躍し、四十代前半で最近キャサリンズの東京支店長に抜擢されたという経歴の持ち主だ。
 東京オークションにとっては、ただでさえ痩せ細った日本の美術市場を奪いあう、競合組織のトップであった。
 とはいえ、キャサリンズから見て、東オクなどしがない弱小会社のはずだ。それでも愛作は美紅が担当する《一九二枚の一ドル札》を元々所有していたコレクターに近づいてキャサリンズに出品しないかと口説いたり、これまでも邪魔をしてきていた。
「アイザックって、東オクをライバル視してません?」
「そうかしら」
 凜太郎ははたと気がつき、両手で口を覆う。
「どうしてなんだろ。もしや……美紅さんのことが好きなんでしょうか!」
「飛躍しすぎ」
 じろりと睨まれ、凜太郎は目を泳がせる。
 ──オークションなんて欲にまみれた、食うか食われるかの世界よ。
 美紅から言われたことが頭をよぎり、爆破予告について思い出す。昨日参加したパーティに、爆破予告の犯人がいたのかも。あの場に集まったうちの誰かが、爆弾をしかけるつもりだったら。想像するだけで背筋が冷たくなる。
 その後、社長が警察とのやりとりを進めているようだが、なんら報告はなかった。不安がよぎるけれど、今の自分にできるのは万全の態勢を整えることだ。
「とにかく、今回のセールスは成功させたいですね」
「燃えてるわね。よほど気に入った?」
 美紅はパソコン画面から目を離さずに訊ねてくる。
「姫奈子さんですか? 気に入ったというより、正直、逆です。第一印象としては、わがままというか、お子ちゃまというか……」
「凜ちゃん、眉間のしわは消えにくいわよ」
「えっ」と、凜太郎は慌てて人差し指と親指で、眉間の皮膚を伸ばしながら訴える。「だって姫奈子さんはパーティでも終始、不機嫌そうだったじゃないですか? 挙げ句、アイザックと名刺交換までして。金持ちの心情ってわからないものですね」
 美紅にしても、どうして冷静でいられるのだろう。秘策でもあるのか。凜太郎は焦るあまり気がつくと、机のうえにあったチョコレート菓子を箱ごと完食していた。いけない、こんなに食べたら明日絶対にニキビができてしまう。後悔で頭を抱えていると、美紅のスマホが鳴った。
「あら、噂をすれば、なんとやら」
「誰からです?」
「姫奈子さん」
 スマホの画面を向けられた。
[昨日いつでも連絡してって言われたので、早速ですが、どうしても探してきてほしいものがあります]
 そのあと、目当ての詳細な説明がつづいた。尾形乾山の茶碗で、大きければ大きいほどよく、色味が鮮やかで草花が描かれたもの、と。
「めちゃくちゃ難題じゃないですか! そんなの、簡単に手に入るものですか? っていうか、なんでオークションハウスの僕たちが探さなくちゃいけないんです? そもそも今はセールス直前で、目が回るくらい忙しいのに」
 しかし美紅は顔色ひとつ変えず、すでにスマホで返信を打っている。
「承知いたしました、っと」
 文面を声に出したあと、美紅は凜太郎の方に笑顔でくるりと向き直った。
「よろしくね、凜ちゃん」
 
 それから、凜太郎は銀座のあらゆる骨董店に、始業時刻をねらって手あたり次第に問い合わせの電話をかけた。そのうち、五、六軒の骨董店では、乾山の取り扱いがあるといい、実際に足を運んだ。
 しかしいくら銀座の骨董店を梯子しても、なかなかよいものと出会えない。そのことを報告すると、美紅から「泣き言はいらないわ」と叱咤され、さらに何軒か探し回って、ようやく最高の一点を見つけだした。
 それは梅の文様が施された名品で、店主も簡単に手放すことを渋っていた。なかなか首を縦にふらない店主と、美紅に電話口で交渉をしてもらい、少し予算をオーバーしながら、ついに姫奈子の許可を得て支払い手続きを終えた。
 姫奈子が有明のオフィスにやってきたのは、午後三時を過ぎた頃だった。
 その日予定していた仕事をすべて後回しにしていた凜太郎は、パソコンの前から片時も離れられないくらい忙しかった。受付から姫奈子の訪問を知らされると、早く手渡してデスクに戻らねばと焦りながら、姫奈子を応接室へと案内した。
「きっとご希望に添うかと思います」
 紐をほどいて桐箱を開けて、中身を取りだす。緑の鮮やかな釉薬が目を惹く、片手では支えきれないほど、大ぶりの茶碗だった。凜太郎の目にも名品にうつる。さぞかし満足してもらえるだろう。
 そう思って顔を上げると、姫奈子は仏頂面だった。
 昨日よりもさらに不機嫌そうで、凜太郎はぎょっとしてしまう。
「お気に召さないですか?」
「いえ。作品自体に問題はないわ。どうせわからないし、支払いもしちゃったし。ただ、どうやって入手したのかを教えてほしいの」
「メールでもお伝えしました通り、銀座の骨董店を方々回りまして──」
「そうじゃなくて、私はあなたじゃなくて、冬城さんに頼んだのよ!」
 言われたことの意味がわからず、凜太郎は面食らう。
 数秒、沈黙したあとで訊ねる。
「冬城さんではなく、僕が変わりに店に行って買ってきたことが、それがいけなかったのでしょうか?」
「そうよ! 他になんの理由があるっていうの」
 姫奈子は挑むような目で、顔を赤くして言う。「あの人をここに呼んで」
 どういうわけだろう。狼狽えながら、凜太郎は訊ねる。
「冬城を、ですか? 今は別のミーティングに入っていますが……」
「いいわよ、待ってるから」
 姫奈子の姿勢からは、黒い革張りのソファからもう一歩も動かないという決意が感じられる。仕方なく凜太郎はいったん席を外して、美紅がミーティングをしている別の部屋へと走った。美紅にこっそりと状況を耳打ちすると、「わかった、行くわ」と答えた。

 

 (第4回につづく)