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第三章 変人と奇人(承前)

 コダマは深くため息を吐いた。
「じゃあ、言いますけど──」
 水久保は身構え、思わずまぶたをぎゅっと閉じた。
「さっき水久保さんが一緒にいたの、中国人のコーディネーターらしいですね。正直に答えてほしいんですけど、《ダリの葡萄》のオークションで良からぬことを工作しようとしていませんか?」
 どうして知っているんだ、という一言が出かかる。
 しかし認めたら、すべてが終わってしまう。
「おいおい、なんの話だよ?」と、演技じみた笑みが漏れてしまった。「そんなわけないだろう。僕だって、《ダリの葡萄》の落札額には大いに期待をかけているけど、工作なんてしたら元も子もないから」
「でも少し聞こえてきたんですよ。トイレで席を立ったときに、たまたま通り道だったんで。最初は声をかけようと思ったけど、“サクラ”って言葉が聞こえてきて──」
「いやいや、東京はもうすぐ花見の季節だからさ」
 言いながら、なんと情けない言い訳か、と自分が嫌になる。けれども、水久保は薄笑いを止められない。頭のなかがますます混乱して、手や脇に汗が噴きだす。堂々と立っているのでやっとだった。
「わかってるんです、僕は! しばらく近くで盗み聞きしてましたから。それに、あのコーディネーターはけっこうグレーなことをしていることで有名だそうですね、西田さんからいろいろと聞きました。そういう人たちと取引なんてしないでください。水久保さんはいつもそうだ。誰彼構わず作品を売ろうとする。もっとプライドを持ってやってくださいよ」
 プライドという一言が、水久保の心を引き裂く。
 プライドなんて気にしたのは、いつが最後だっただろう。桜井厚子に媚びへつらうようになる前、いや、ミズクボギャラリーの名前でフェアに出品しても売れないことがつづく前。少なくとも独立した当初は、高いプライドこそが原動力だったのに。
「……でもな、コダマ。これだけは言っておく。俺は君たちアーティストのため、君のためになら、なんだってやれる」
 コダマは俯いて、「それは、知ってます」と小さく肯く。「偉そうな言い方ですが、水久保さんの頑張りは、僕が誰よりも近くで見てきました。いつも遅くまでギャラリーに残って仕事して、身体を壊すんじゃないかって心配になるくらい」
 だったらなぜ──。
 水久保はコダマの作品を一人でも多くの所蔵先に届けたい、コダマのために尽くしたいと思ってやってきた。コダマの才能を信じるがゆえに、なぜもっと売れないんだろうと焦り、渇望してきた。それは偽りのない本心だった。
 けれど今、コダマを前にして、胸を張って彼を引き止められない。
 そうする資格があるとは、もう思えなかった。心のなかに諦めが広がる。
「たしかに君は正しいよ、コダマ」
「えっ?」
「君はここにいちゃいけない。才能が無駄になる前に、所属を変えた方がいい」
「辞めろってことですか」
「そう聞こえたなら、そうかもな」
 コダマは水久保を見据えながら、険しい表情で口を開きかけたが、なにも言わずに目を逸らし、そのままオフィスを出ていった。ドアが閉じる音が虚しくオフィスに響く。
 水久保は唇を噛み締め、身じろぎもできなかった。
 スマホが着信したとき、もう二十二時を回っていた。
「今から会える?」
 冬城美紅の声だった。

 夜のショッピングモールは静かだ。
 チェーン展開されているラーメン屋以外は、ほとんど閉店していた。唯一、赤ちょうちんが灯って店内が賑やかなラーメン屋の前で待つ水久保のもとに、背が高くて姿勢のいい女性が歩いてきた。彼女が現れただけで、営業終了前のモールでも華やかに感じられる。
「お待たせ」
 美紅はにこりともほほ笑まずに言う。
「ちょうど今、席があいたところだよ」
「じゃ、入りましょうか」
 ラーメン屋に行きたいと言ったのは美紅の方だった。美紅はエレガントでセレブな外見とは裏腹に、味覚は庶民派だ。このラーメン屋は美紅のお気に入りの店のひとつであり、これまでも何度か残業終わりに鉢合わせしたことがある。
 店内はがら空きで、二人は案内された広めのテーブル席に座り、とんこつ並を二つ注文する。カウンター越しに店員がてきぱきと麺を湯切りしたりラーメン丼を準備したりするのを眺めながら、いつになく水久保は気まずさを感じる。
 中国人のコーディネーターと会ったことは、美紅に口が裂けても言えない。知られてはいけない。こうしてラーメンを食べにいく仲にもかかわらず、彼女を裏切っているという事実が、水久保をうしろめたくさせる。
 ここに来るまでは、正直バレたかと思っていた。きっと問い詰められ、非難を浴びせられる。さらにはコダマの作品の出品さえも中止にする、と断罪されるかもしれないと覚悟を決めていた。しかし今となりの席に座る美紅は何食わぬ顔をしながら、スマホで仕事の案件をさばいているようだ。
「なによ」
 こちらを見ないで言われ、水久保はたじろぐ。
「なにって」
「さっきから人の顔をじろじろと見てるじゃない」
「今日はいろいろあったからさ」
 その直後、なにがあったのかと問われたらどうしよう、と発言を悔いるが、美紅は訊いてこなかった。
 代わりにしばらく水久保のことを見つめたあと、ふっと表情をやわらげた。
「人ってね、予兆を感じているあいだは引き返せるんだけど、一度流れに乗ってしまったら抗えないんだって。たとえば、歯医者の治療ってあるでしょ? 一度診察台に乗ってしまえば、藪医者だとわかっていても従う人ばかりらしい。はっきりノーって言える人って少ないのよね」
 どうして美紅は、こんな話をするのだろう。ギャラリーの経営が傾いている水久保の状況を、暗に批判しているのかもしれない。
「俺もノーって言えないタイプだわ」
 美紅は笑った。
「肝心なときほど気が弱いもんね」
 水久保もつられて自虐的に笑ってから、つい本音が漏れる。「どうしてギャラリストとして独立なんかしたんだろうな」
「でもさ、水久保くん」と言って、水を一口飲むと、美紅はこちらに身体を向けた。「過去のことばかり考えても仕方ないよ。どうしてって問うばかりじゃなくて、どうやって未来を変えるのかを考えなさい。大切なのは今だから。未来は変えられる」
 けれど、水久保は美紅の目をまともに見返すことができない。今の自分は美紅にさえも嘘をついているのだ。

 

 (第25回につづく)