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 第二章 サラリーマン・コレクター(承前)


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 安村は会場に戻りながら、美紅への伝え方を考えていた。
 今回のオークションはキャンセルにして、キャサリンズに出品先を変えることにしたと正直に言う勇気はない。けれど他に適切な言い訳も思いつかない。たとえば、作品を手元に置いておきたくなったとその場しのぎの嘘をつくことはできるが、いずれキャサリンズに出品すれば東オク側にも知られてしまうのだ。
 ──コントロールする側。
 アイザックの一言が思い出され、安村は歩を速める。
 そう、自分は顧客だ。お客様なのだ。恩人とはいえ、美紅に気を遣うことはない。
 好きなオークションハウスに作品を出品して当たり前である。たとえキャサリンズに作品を持っていっても、美紅にとやかく責められる謂れはない。誰に責められたわけでもないのにくり返し自分に言い聞かせながら、安村はエレベーターに乗りこんだ。
 ドアが開いたとき、会場の入口前に、待ち合わせていた美紅と凜太郎の他に、見覚えのある立ち姿の男性を認めた。安村よりもずっと年上だが、学生のような若々しい雰囲気をただよわせている。それはジーンズに黒いトレーナーというラフな服装のせいか、あるいは、無精ひげのせいだろうか。
 目が合って、考えるよりも先に言葉が出た。
「藍上さん……ですよね?」
 藍上は鋭い目つきで「あんたは?」と安村を見据えてきた。
 非友好的な物腰に圧倒され、安村は返答に詰まった。代わりに、となりにいた美紅が助け船を出してくれる。
「こちらは安村さんです。お話ししていた、藍上さんの《無題》を出品なさるコレクターの方ですよ」
「ああ、あなたが!」
 藍上はいっぺんに表情を明るくすると、こちらの手を両手で握ってくる。藍上の手は乾いているが温かく、強引なわりに握力は感じられず柔らかかった。普段、誰かと握手することなんてないし、芸術家に感謝されるとは思わなかったので、安村はしきりに瞬きをする。
 なんというか、ともかくエネルギッシュな人だ。
 藍上の代わりに、美紅が事情を説明する。
「藍上さんはこういう場所に普段はいらっしゃらないんです。でも今日は、ご自身が十年以上前に描かれた幻の名画と、また対面したくなったそうです」
 幻の名画という美紅の褒め方に、藍上は「そんな大したもんじゃないけど」と、満更でもなさそうに頭に手をやっている。
「たしかに今のタイミングを逃せば、つぎにいつ会えるかわからないですもんね」
 傍らに立っていた小洗が、しみじみと言う。
「でも理由はもうひとつあるよ」
 藍上は手を離すと、改まった口調でつづける。
「今日ここに来たのは、安村さんに一言お礼を伝えておきたいって意味もあったんだ。今まで頑張ってこられたのは、あなたのおかげと言ってもいいかもしれない。しかも、安村さんはサラリーマンだっていうじゃない。そのことを画商から聞いたとき、金持ちに買ってもらうより何倍も嬉しかったよ」
「いや、僕はなにもしていませんが──」
「そんなことはない!」
 藍上は目を見開いて声を張った。
「あなたが俺の作品を買ってくれたとき、六十を過ぎたばかりの俺は、業界で“過去の人”扱いをされていた。どれだけ描いても見向きもされず、このまま消えていくんだろうといつしか自信を失っていた。取り扱ってくれた画商からも、あのときの個展で作品が一点も売れなければ匙を投げられるところだった。でも個展の最終日に、やっと一点だけ売れたんだ。それがあの《無題》だよ」
 安村も知らなかった事実に息を呑みながら、《無題》を見つめる。世界各地で大規模な回顧展ツアーを成功させている今でも燦然と光る、唯一無二の傑作だった。描いた当時の藍上が自信を失くしていたとは、誰が想像できるだろう。
「もちろん、作品が売れなくても俺は俺だ、誰になんと言われようとね。でも今の藍上潔があるのは、安村さん、あなたがいたからだよ」
 安村は美紅と顔を見合わせる。美紅は笑みを浮かべながら、こちらを見つめていた。アイザックとのやりとりを知られているような気がして、心臓が跳ねる。自分はこの人を──オークションの女神を裏切るのか。
 
 十三年前、安村は帰宅途中でふらりと立ち寄った画廊で、藍上の作品と出会った。
 職場と自宅とを往復するだけの単調な日々のなかで、未知の世界へと踏みだす時間を久しぶりに得られた。いつもは通りすぎていたその画廊だが、立ち寄るのははじめてだった。その日はガラス扉の向こうに、心惹かれる作品が見えたのだ。
 白い壁に囲まれた、静かな空間で、安村は展示されている作品を一点ずつまじまじと眺めた。どれも絵具が自由に踊っている。よくわからない作風だが、見つづけるほど心惹かれている自分がいた。
 受付に置かれた作品の価格表を手にとると、気になった一点は《無題》という題名で二十三万円らしい。もちろん高額に感じられたが、これだけの大きさの作品で二十三万は安くないかとも思った。こちらは素人だから当然だが、乱雑に描いているようで、その実少なくとも自分には描けそうにない。値段の妥当さについて安村は考え込んだ。
 ──もう、筆を折るそうですよ。
 数秒ほど、自分が話しかけられているとは思わなかった。
 ふり返ると、先客だった若い女性が、少し離れたところから《無題》を眺めていた。
 ──そうなんですか?
 非日常な場とあって、初対面の女性にもかかわらず自然と会話をはじめていた。
 ──私、つくり手の方と面識があるんです。描きつづけるのは大変だ、どうせ売れないからもうやめるっておっしゃってました。
 ──残念ですね。
 本心からの言葉だった。
 すると、女性は名刺を差しだした。東京オークションという会社で働いているらしい。彼女は藍上という芸術家について、どんな経歴を持ち、どういった人柄なのかといった話をしてくれた。聞いているうちに、安村の心にある感情が芽生えた。
 応援したい──。
 この初老の芸術家を元気づけたい。なぜなら落ち目の芸術家という境遇が、会社で軽んじられている自分と重なったからだ。
 ──購入を検討なさってるんですか?
 女性は、安村が手に持っている価格表を指した。
 ──いやいや! 私なんて平凡なサラリーマンです。購入なんて無理ですが、ちょっと気になってしまって。
 ──買っておいた方がいいですよ。
 唐突だったが、きっぱりとした口調だった。
 画廊のスタッフでもない、見ず知らずの、しかも二十歳そこそこの女性から、きっぱりと購入をすすめられるとは。
 困惑する安村に、その女性は知的な話し方でつづけた。
 ──藍上潔さんは近いうちに再評価されます。私も可能なら購入したいですが、就職したばかりなので予算がないんです。今はこんなに値段が下がっていますが、確実に上昇の兆しがあるので、これ以上いいタイミングはありません。
 ──株や投資のような物言いですね。
 ──メカニズムは似ていますね。ただ、本質は全然違いますよ。
 女性はにこりともせず髪をかき上げた。迷いのないまなざしに、いつのまにか安村は心を決めていた。
 あのときの若い女性こそが、目の前にいる冬城美紅だった。

 (第15回につづく)