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「アイザックの正義……ね」
 美紅がくすりと笑ったのを、凜太郎は見逃さなかった。
「どういうことです?」
「社長はきっと、アイザックが東オクにこだわっていること、もっと言えば、アイザックの社長に対する複雑な感情に気がついている。それを知ったうえで、アイザックを手のひらで転がしているんだと思う」
「じゃあ……つまり、アイザックがピカソの陶芸品の真贋を調べたのは、じつは、社長の戦略ってことですか? と、すればですよ、社長はもっと前から、あの作品の真贋を疑っていたことになるじゃないですか!」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも社長は、温和そうで誰かに踊らされているように見せかけて、じつは相手を自分の意のままに誘導する、したたかな人よ。油断させるのがうまいの。一番怖いタイプかもね」
 凜太郎は安堵のため息を吐いた。
 けれど、ピカソの壺が出品されなくなるのは残念すぎる。さきほど対応したキュレーターは予算も積んでくれそうだったし、なにより、わざわざ今回のオークションのために来日したと話していた。きっと落胆し、オークション当日まで真贋を見抜けなかったこちらの不手際を責めるかもしれない。
 このとき、あの壺に同じく興味を持っていた様子の、地味な服装でかえって目立っていた女性のことが頭をよぎった。
「じつはあのピカソの前で、もう一人、別のお客さんと話をしたんです。三十代くらいの女性で、コレクターっぽくない感じで、控えめな人だったんですが、すごく熱心に作品のことをご覧になっていて──」
 美紅は顔を上げると、珍しく声を張った。
「名前は訊いた?」
「いえ、名刺は渡しましたが、名乗りはしませんでした」
「もしかして、年齢は私くらいで、キャップ帽をかぶっていなかった?」
「あ、そう! えっ、ご存じなんですか?」
 思わず立ちあがって美紅の方を見ると、「あれ、やっぱりそうだったんだ……」と、感慨深そうに言いながら、ゆっくりとソファに腰を下ろし、両手の細い指を組んた。
「知り合いですか?」
「ええ。もし私が思い浮かべている相手と、凜ちゃんが会った女性が同じならね。彼女の名前は熊坂羽奈。じつは今朝、偶然、有明駅で見かけたのよ。混雑したホームですれ違っただけで、すぐに見失ったから人違いかと思ったけど、今の話を聞いて確信したわ。だってピカソの陶芸品をじっと見ていたんでしょ?」
「そうですけど、なぜ断言を?」
「彼女も陶芸家だからよ」
 凜太郎は内心、膝を打った。たしかに陶芸家と言われれば、そんな雰囲気だった。すぐさまスマホで名前を検索すると、美術雑誌や女性誌でインタビューを受けている写真がずらりとヒットした。間違いなく同一人物だった。
「だから僕もなんとなく見覚えがあったのか」
「今じゃ、なかなかの売れっ子だからね」
 美紅は口元をほころばせた。
「ひょっとして、美紅さん、お知り合いなんですか?」
「ずいぶんと前にね」
 美紅はそれ以上説明しなかったが、目の輝きからして、ただの顔見知り程度というわけでもなさそうだった。どういう関係なんだろう。気になる凜太郎の前で、美紅は「へぇ、彼女があの作品に興味を」と、考え事でもするように呟いた。
 
 *
 
 買い物客で賑わう週末のショッピングモールで、羽奈は行く当てもなく彷徨さまよった。
 歩きながら、自分がどうすべきかを考えつづけていた。
 選択肢はいくつかある。まず、一番楽な方法は、このまま誰にも贋作だとバレないことを願って、なにもしないで帰る。しかしそうすれば、あの壺は美術館に納められる。遅かれ早かれ、専門家が正式な調査をしたときに、贋作だと発覚するだろう。そのとき、絶対あの証拠が命取りになる。つくったのは熊坂羽奈だという動かぬ証拠だからだ。今オークションを見過ごすのは自殺行為だった。
 いっそのこと、自分が贋作をつくったと東オクのスタッフに申告してはどうか。それが二つ目の方法であり、最善の選択に思えた。罪を犯したという事実はどうやっても変わらないのだし、罪を罪で誤魔化すよりも素直に白状すべきだ。大勢の人に迷惑をかける前に。
 いや、無理だ──。羽奈はぎゅっと目を閉じる。たとえ自分一人は楽になれても、工房で頑張ってくれているスタッフを裏切ることになる。どちらにせよ、誰かに迷惑をかけるという点ではなにも変わらない。
 だとすれば、最終手段として、なんとかして落札を阻止するしかなさそうに思えた。肩にかけている鞄を、いっそうきつく抱き締める。こうして持ち歩いているだけで、緊張で吐き気が込みあげるほどなのに、実際に使う勇気を出せるだろうか。
 大丈夫、誰かを傷つけるわけじゃない。ただ、会場に混乱をもたらすだけでいい。この日のセールスが中止になれば、あのピカソの出品も取り下げになるかもしれない。実際に爆発させる前に匿名で「爆弾を見かけた」と通報する手もある。
 自分に言い聞かせながら踵を返し、東オクの会場へと歩きだす。ここまで来たのだ。あとは行動に移すのみ。もう後戻りはできない。会場のエレベーターホールに着いて、深呼吸をする。さて、どこに設置しよう──。
「羽奈」
 とつぜん声をかけられ、心臓が跳ねた。危うく、鞄を落としそうになる。
 ふり返ると、見知らぬ女性が立っていた。すらりとしたモデル体型で、美しい黒いドレスを身にまとっている。海外の女性のように濃いメイクをしているが、彼女の華やかさを惹きたててよく似合っている。
「ごめんなさい、驚かせて」
 彼女はやけに親しげな物腰で詫びた。
「いえ……あの、失礼ですが?」
 誰なのか。まったく思い出せないが、今、間違いなく羽奈と名前を呼ばれた。
「憶えてない? 冬城美紅よ」
 口がぽかんと開く。信じられなかった。
「あの冬城さん? えっ、冬城さんなの?」
「久しぶりね」
 にっこりと笑った彼女に、やっと昔の面影を見つける。同時に、長らく忘れていた記憶が瑞々しくよみがえった。

 

                        (第32回につづく)