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 第二章 サラリーマン・コレクター


 それは横幅三メートル以上もある作品だった。
 具体的なモチーフが描かれているわけではなく、絵具の塊が無作為にぶつけられた抽象絵画である。
 はじめて運び込まれたとき、あまりにも横に長いので左右二枚に分割されていたが、小洗凜太郎はどちらが左でどちらが右か即座にはわからなかった。
 作者の名前は、藍上潔あいがみきよし。七十四歳になる現代絵画の巨匠だ。
 改めて作品を見上げていた凜太郎は、横から声をかけられる。
「そんな顔しちゃだめよ」
 ふり向くと、冬城美紅が立っていた。
 お疲れさまです、と凜太郎は慌てて頭を下げる。
「よくわからないって顔してた」
「申し訳ありません! ただ、言いにくいんですが……この作品ってどういうふうに見ればいいんです? 自分でも勉強してみたものの、まだピンと来ていなくて」
「ポロックだと思えばいいのよ。ジャクソン・ポロック」
「二十世紀のアメリカ人画家ですよね」
 ポロックは床に平置きしたカンヴァスの上空で、絵筆を振りまわして絵具を飛ばす「アクション・ペインティング」で知られる画家だ。美紅いわく、逆に筆致を残さず工業製品のようにシルクスクリーンを量産したウォーホルは、いわゆる“絵画らしい絵画”を残したポロックらを乗り越えようとしたのだとか。
「そう、この絵の作者である藍上潔さんも、ポロックから影響を受けたって言ってるの。絵画にしかできない表現を目指したって」
「なるほど!」と、凜太郎は手のひらを合わせて声を弾ませる。「美紅さんの解説を聞くと違って見えてきます。だから今回のラインナップに含められているわけですね、ウォーホルへの流れで」
「やっとわかった?」
 以前に美紅から教わったのだが、オークションのセールスはひとつの大きな物語を構成するように入念に計画される。たしかに今回の出品作も、テーマに沿って必然的な順序で並べられていた。
 美紅は腕時計をちらりと見て言う。
「そろそろ安村やすむらさんが来る頃ね」
 藍上が描いた絵画をこれまで所有していたのは、サラリーマン・コレクターとして知られる安村康弘やすひろである。彼はこの日ここに来て、自らの手を離れる作品を最後にじっくりと見る予定だった。
 オークションハウスの仕事では、姫奈子のような“買う客”への対応だけでなく、安村のように作品を“売る客”へのサービスも重要になる。より価値ある作品をオークションに出品してもらえれば、売り上げの数パーセントを利益とする会社側にとってもありがたいからだ。
 ふと美紅の方を見ると、「こういう形で再会できるなんてね」と感慨深げに言う。
「前にも見たことがあったんですか?」
「なんでもない。あら、いらっしゃった」
 美紅がこちらの肩越しを見て呟いたのと同時に、「こんにちは」という明朗な挨拶が響いた。
 ふり返ると、中年男性が立っていた。この人が安村か。
 身長は凜太郎よりも低く、ふっくらした体形である。クリーム色のスーツに蝶ネクタイという装いは、堂々とした声によく似合う。これまで美紅がやりとりを一挙に引き受けていたので、凜太郎がきちんと挨拶するのははじめてだ。とはいえ著作やインタビュー記事などでよく知っている存在でもあった。
「ご来場ありがとうございます、安村さま」
 美紅が頭を下げると、安村は「この日を待ち望んでいたよ。少し寂しさもあるけどね」と気さくに答える。
「あ、これ、忘れないうちに」
 そうして安村が美紅に手渡した土産は〈ふたば〉のたい焼きだった。好物をもらった美紅は「まぁ、嬉しい」といっぺんに表情を明るくする。
 それから安村は、会場にいた別のスタッフたちとも「やぁ、久しぶり」「そのスーツよく似合ってるねぇ」などと手を挙げるなどして挨拶を交わしていく。酒が入っていないと細やかな気配りができる人のようで、凜太郎はますます感心した。
「はじめまして、小洗と申します。僕、安村さまのことを尊敬しているんです!」
 唐突だという自覚はあったが、凜太郎は一歩前に出て伝える。
「えっ、尊敬?」
 安村は困惑するように瞬きをくり返しつつも笑っていた。
「直接お話しさせていただくのは今日がはじめてですが、僕は以前より安村さまのご活動に感銘を受けておりました。“美を愛する心は一番のアート”という意味深な言葉がとくに印象に残っています」
 凜太郎がはじめて安村を知ったのは、まだ東オクに入社する前、テレビに出演していたことがきっかけだ。トレードマークの蝶ネクタイに個性的なメガネをかけて派手な服装に身を包みながら、美術史について熱く語る親しみやすいコレクターおじさんは、キャラクターが立っていて印象深かった。
 興味を惹かれ、安村の著作『平凡な会社員がオフィスを飛びだし、華麗なるアートを買いあさることになった十の理由』を購入すると、思った以上に真っ当なことを言っていた。
 ──私は自分のような庶民でもアートに親しみ、ひいてはそのコレクションができるのだと世の中に知らしめたくて身銭を切っています。それは作品購入を躊躇する潜在的なアートファンのためであり、なによりアートそのもののためです。
 ──家族と一緒に自宅で作品を鑑賞するのは、至福の時間です。
 安村は信念を持っているだけでなく、美術史への造詣も深いらしく、うんちくも読みごたえがあった。
 著作についての感想も伝えると、安村は口を大きく開けて笑った。
「君のような若い人に褒めてもらえると、僕も本当に嬉しいよ。美紅さん、いい若手社員がいて素晴らしいね!」
 美紅にこんなにも馴れ馴れしい態度をとれるなんてすごい、と凜太郎はいっそう安村に感心する。
「恐れ入ります」
 美紅は笑顔を崩さず、相槌を打つ。
「ところで、今回出品されるピカソの陶芸品をカタログで見たけど、あれはなかなか素晴らしい作品だね。評価額もずいぶん思い切ったものだし」
「じつはピカソの陶芸品は、今回のオークションにおいても社内で意見の分かれた作品なんです。このあと、ご覧になりますか?」
「せっかくの美紅さんからの提案でありがたいけど、今は藍上さんの作品に集中することにするよ」
 美紅とのやりとりを傍観しながら、やっぱり安村は本当に経験に裏打ちされた審美眼を持っているんだな、と凜太郎は実感する。
 それから安村は、藍上の大作《無題》の前に向かった。
 自身のコレクションを無言で眺める安村に、凜太郎は思い切って声をかける。
「あの、安村さん。ひとつお伺いしてもよろしいですか?」
「いいよ。なんでも訊いておくれ」
「藍上さんの《無題》を購入なさった十三年前は、藍上さんの市場価値も今ほど高くなかったですよね? むしろ安村さんが購入した直後に、欧米で大規模な個展が連続して開催されて価格も急上昇した。いわば再発見されたと言ってもいい。安村さんは未来を見抜いていらっしゃったんですか?」
「まさか」と、安村は愉快そうに笑った。
「では、単純に作品の魅力によるところなんですね」
 凜太郎が身を乗りだして問うと、安村は笑うのをやめて真顔になった。
「もちろんそうだし、市場価値が上がることを正確に見抜いていたわけじゃない。だからといって、まったくの偶然というわけでもない。なぜなら僕が信じていたのは、藍上さんの才能だ。藍上さんはすごい芸術家だとは確信していた。借金をしてでも購入しなきゃいけないと思ったんだ。たとえ世の中に認められなかったとしても、自分自身の審美眼も藍上さんの類まれな力も両方信じたいってね」
「すごいっ、本当に尊敬します!」
「そこまで言われると、さすがに恥ずかしいけれど」と頭に手をやりながら、安村はニヤリと笑った。「でも僕にとって、命と同じくらい大切な作品には変わらない。たとえるなら愛娘を嫁に出すような気持ちだよ」
 安村は蝶ネクタイを整えながら語る。
 作品を娘さんにたとえるなんて、やっぱり家族想いの人なんだな──。
 凜太郎はふと、頭に浮かんだ素朴な疑問を口に出した。
「どうして今、出品を決意なさったんです?」
「えっ?」
「もう少し待ってもよかったんじゃないですか」
「それは……まぁ、答えは誰にもわからないものだし、そろそろかなって思ったんだ」
「ただ、藍上さんは日本国内で大きな展覧会を巡回させる予定だと聞きました。もちろん安村さまもご存じだと思いますが、今後ますます価値は上がりそうだなと──」
 グッという安村の唸り声が聞こえて、凜太郎はようやく気がつく。
 やってしまった。
 空気を読むのが苦手な凜太郎は、他人の心に土足で入るような発言を無意識に口にしてしまう悪い癖があった。しかし今のは、いったいどこが悪かったのだろう。たしかに売りにだす理由は、美紅からも聞いていなかった。
 腑に落ちないでいると、安村のスマホが鳴る。
 安村は胸ポケットからスマホを出すと、「失礼。妻が到着するようなので、入口まで出迎えに行ってくるよ」と告げて、そそくさと去っていった。

 

 (第10回につづく)