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第五章 オークション(承前)

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 なぜ藍上清の《無題》は不落札になったのだろう。
 安村は何度考えても、わからなかった。オークションには魔物がいる、と以前、コレクター仲間から聞いたことを思い出す。幸運が重なって、予想もしなかった作品が高値になることもあれば、ささいな理由で名品が不落札になる。競りは水物だから、絶対にオークションには出さない、という堅実なコレクターもいる。
 それにしても、妻の佳代子の様子はずっとおかしかった。
 なにもない壁の方を向いて、どこか一点を睨みつづけている。安村には見えないなにか幽霊や幻覚でも、佳代子には見えているのだろうか。不気味でさえあった。
 とはいえ、今の安村が、不用意に妻に声をかけるのは自殺行為でしかない。
 ああ、早く終わってくれないかな──。
 ピカソの壺の入札が佳境に入ったとき、佳代子がとつぜん席を立った。
「ど、どうした?」
 答えないので、安村も仕方なくあとを追う。佳代子が歩いていく廊下の先に、火災報知機があった。さっきまで佳代子が見つめていたのは、壁を隔てた向こう側にある、あれだったのか、と安村はやっと理解する。
 佳代子は迷うことなく、赤い丸の中央にあるボタンに指を置く。そして、ゆっくりと力強く押しつけた。
 妻の一連の行動は、安村の目に、まるでスローモーションのようにうつった。
 は? なにをしているんだ!
 しかし安村が声を上げるよりも早く、会場のあちこちから空気を切り裂くような甲高い音が鳴り響いた。
 当然、オークショニアや周囲の客は、鳴らしたのが佳代子だとは気がついていない。みんな競りに集中していたうえに、廊下は他に人がいなかった。こんなふうに、会場の集中が逸れて、火災報知機の周りに人がいなくなるタイミングを、佳代子は見計らっていたのだ。
「火事ってこと?」「どこに逃げればいい?」と、声が飛んでくる。
「みなさま、すぐに原因を調べます! いったん落ち着いてください──」
 会場の反対側から、小洗や他のスタッフが聞こえたと思ったら、社長がマイクで「スタッフの誘導に従ってください!」と冷静に制する。
 安村は血の気が引いた。
「大変なことになってるじゃないか!」
「そうね」と、佳代子は無表情で答える。
「もう結果は変わらないんだぞ? こんなことをしても、不落札をなかったことになんてできないんだぞ?」
「わかってるわ。でも、おかげでスッキリしたわ」
 佳代子は断言し、ほほ笑んだ。
 あまりに晴れやかな笑みだったので、安村はゾッとする。
「……もしかして、前から計画してたのか?」
「まさか! 私だって暇じゃないわ。さっき偶然、別の火災報知機の前で、深刻な顔をした人を見かけたの。たぶんその人も、私と同じ気持ちでいたんじゃないかしら」
「同じ気持ちって?」
「オークションもアートも、くそ食らえって気持ちよ」
 佳代子は語気を強めた。
「その人を見かけて、私にもアイデアが浮かんだ。藍上の競りが失敗すれば、このボタンを押して、全部台無しにすればいいって」
「そ、そんな……だからって……」
 安村が両手で顔を覆うと、佳代子は大声を張りあげた。
「もう全部、無茶苦茶にしてやりたかったのよ! アートだの投資だのって、聞こえのいいことばかり言って、なんの痛痒もなく人を不幸のどん底に突き落とす。今日はじめてオークションを見学して、あなただけが悪いんじゃないってわかったわ。ここにいる全員に、腹が立って仕方ない」
 支離滅裂なのに、佳代子のなかで滾る憎しみに押され、反論できない。
 自分は妻を、これほど追い詰めていたのか。正気を失わせるほどに、妻を苦しめていたのか。猛省するが、もう遅い。もう終わりだった。妻も、自分も。
 サイレン音にかき回されるように、建物の外に向かって逃げまどう人たちを呆然と眺めながら、安村はその場に立ち尽くす。
「おい、安村さん!」
 そのとき、肩を叩いてきたのは、まさかの藍上潔だった。
 藍上は険しい表情で、妻の方を指さした。
「今、あんたの奥さん、わざとそのボタン押しただろ」
 目撃されていたのか! しかも、よりにもよって藍上に。
 最悪だ。嫌な予感しかしなかった。
「藍上さん、申し訳ありません! どうか妻のことは黙っていていただけないでしょうか」
 土下座をする勢いで、低く頭を下げる。
「は? なに言ってんだ。仮に俺が黙ってても、俺の他にも、奥さんの行動を目撃したやつはいるはずだぞ。それに、見逃すにはあまりにもひどい状況になってるじゃないか」と、藍上は周囲を見回した。
「しかし──」
 頭を下げる安村を無視して、藍上は唾を飛ばして怒鳴りちらす。
「あと、少し聞いてたんだが、奥さん、あなたは間違ってますよ。アートを馬鹿にしちゃいけないよ!」
 藍上も、自分の作品が不落札になって気が立っているのだろうか、喧嘩腰だ。
 安村が焦るのをよそに、佳代子が「なんですって?」と、真顔でふり返った。
「私は間違っていませんし、事実を言ってるだけです。はっきり言って、あなたもこの世界では有名な画家だかなんだか知りませんけど、世間一般ではほとんど認知されていませんからね。なにより、あんなに大きくて俺すごいだろ的な絵を描いたわりに、あっけなく不落札だなんて情けない」

 

                        (第39回につづく)