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 第一章 ラブ・アンド・マネー(承前)



 キャサリンズのオフィスを出ると、父は運転手付きの車に向かった。
「東京オークションには、自分で断りの連絡を入れておきなさい」
「えっ? もう響子さんが断りにいったんじゃないの?」
「今朝、行ったそうだ。だが、本人とやりとりしないとキャンセルはできないと言われたらしい。融通の利かない会社だな」
 そんなに硬そうな会社に見えなかったけど、と姫奈子は瞬きをくり返す。
 父はこちらの驚きに気がつかず、車に乗りこみ、夕暮れの大通りを走り去っていく。姫奈子は行く当ても決めずに歩きながら、今言われたことについて考える。冬城美紅は自分のことを、年下でわがままなお嬢さまと見做みなし、冷たくあしらったのだと思っていた。しかし今の話が本当なら、少なくとも富永家の一員ではなく、独立した一人の顧客として扱ってくれたことになる。それどころか、響子をはじめ富永家の面々の機嫌を損ねてでも、姫奈子の意思を尊重し、守ってくれたとも受けとれる。
 ──断りの連絡を入れておきなさい。
 父の言葉が頭のなかでこだまする。
 鞄からスマホを出すが、あの人になんて断ろう。
 今回の依頼はキャンセルしたいと告げるだけなのに、どうしてこれほど億劫なのか、自分でもわからなかった。
 スマホの画面を表示させると、メッセージが届いていた。妹の愛子からだった。
[至急、うちに来てくれない?]
 十分前のものだった。無視しようとするが、まるでこちらの用事が終わるのを見計らったように、愛子から電話がかかってくる。
「ねぇ、電話に出られるなら、早く返信してよ」
 開口一番で責められ、いつもの言葉が口をつく。
「……ごめん」
 どうして謝っているのだろう、と姫奈子は自分にも腹が立った。
「とにかく、うちに来て。手伝ってほしいことがあるの。どうせ暇でしょ?」
 手伝ってほしいこと──愛子は基本的に、家事はお手伝いに、子守はベビーシッターに任せている。それでも、手伝わせたいこととはなんだろう。過去の経験からして、悪い予感しか浮かばない。
 こちらが黙っていると、愛子は畳みかけるように言う。
「私の言うこと、聞かなきゃいけない立場なの忘れた?」
 その一言は、姫奈子の心臓を掴んだ。
 昨日、冬城美紅にぶつけた台詞と、ほぼ重なったからだ。
 ──あなたは私の言うことを素直に聞く立場でしょ?
 今まで自分が、あの年上の女性を執拗に困らせていたのは、妹への反発が生んだ、無意識の腹いせだったのかもしれない。
 昔からわがままで、こちらを困らせて楽しんでいる、悪魔のような妹だった。仮にそのことを周囲に訴えても、あなたはお姉ちゃんだから許してあげなさい、と取り合えってもらえなかった。
 そんな自分のやりきれなさを、あの冬城美紅という、いかにも仕事のできそうな女性にも味わわせてやりたい。そんな深層心理で、八つ当たりしていたのではないか。気がつくと、加害者側に立っていたなんて。謝らなくちゃ。いつか。
「もしもし、聞いてるの──」
 姫奈子はなにも言わずに、通話を切った。
 スマホの画面をしばらく眺めていたが、愛子は諦めたのか、もう電話はかかってこなかった。仕返しを恐れながらも、姫奈子はそれ以上考えるのも面倒になり、スマホを鞄にしまおうとする。
 そのとき、またメッセージが届いた。
[お話ししたいことがあります。お時間いただけますか?]
 今度の差出人は、冬城美紅だった。
 
 *
 
 終業時刻の夜七時まで、あと一時間だった。
 他のスタッフがいないタイミングを見計らい、凜太郎は切りだした。
「美紅さん、さっきはすみませんでした」
 美紅はパソコンを打つ手を止めずに「さっき?」と訊ねる。
「僕が失言したことです。姫奈子さんのことは、本当にその通りでした。母親がひどい人だからって、娘の姫奈子さんにはなんの関係もない。二人を一緒くたにするのは、間違っていたと思います」
「反省したなら、それでいいわ」
 会話を終わらせようとする美紅に、凜太郎は身を乗りだして伝える。
「じつは、そのあと栗林社長と話して、信頼関係を築くことが大事だって、助言をいただきました。僕は、美紅さんの一人前のアシスタントになれるように、まずは、美紅さんの信頼を得られるよう、頑張ります」
 ひと思いに言い切ってから、頭を下げた。
「凜ちゃん。コーヒー飲みたい」
 顔を上げると、美紅は真顔でこちらを見ていた。
「はいっ、すぐにお持ちします」
「よろしく」
 給湯室で二人分のコーヒーを準備して席に戻ると、美紅はデスクから少し離れた、窓際の休憩スペースに座っていた。九階の窓からは、高層ビル群の光を反射する夜の東京湾やきらきらしたレインボーブリッジが望めた。
 コーヒーを受けとると、美紅は「ありがとう」と礼を言い、向かいに座るように凜太郎に促した。
「凜ちゃんのご両親は今、日本にいるんだっけ?」
 美紅からプライベートなことを訊かれるのは、はじめてだった。
「はい。僕が中学生の頃から、ずっと日本です」
「へぇ、じゃあ高校や大学のあいだは、ご両親とは離れてアメリカにいたわけ?」
「そうなんです。でも両親からは、日本に帰ってこいって言われたことが一度もないんですよね」
 凜太郎は一時期、日本の学校に通ったことがあった。そのとき周囲に馴染めず、いじめに遭った凜太郎を、両親は全面的に肯定して背中を押してくれた。おかげで凜太郎は、アメリカに単身で戻る決意をし、両親の知り合いのところでホームステイさせてもらった。おかげで今も、自分を嫌いにならずに済んでいる。いつも味方でいてくれて、自分らしくいればいいと教育してくれた両親に、凜太郎は感謝しかない。
「だったら、どうして日本に帰って、うちに就職したの?」
「母が倒れて、手術することになったんです。今は回復して、ピンピンしていますが、親の命も永遠じゃないって悟りました。親孝行できるうちは、この人たちの近くにいたいと思ったんですよね」
「なるほどね」
「僕は親に恵まれています。だから姫奈子さんの気持ちを想像できず、反省です」
 凜太郎は紙コップに目を落とす。
「いや、偉いよ」
「そうですか?」
 顔を上げると、美紅は笑みを浮かべていた。
「だって、親が倒れても自分を優先したり、そのせいで自分の人生が変わったって親を責めたりする人もいる。そうしなかった凜ちゃんは偉い」
 褒められるのははじめてで、涙腺が熱くなる。ましてや、相手は美紅だ。
 同時に、凜太郎は美紅のことをもっと知りたくなった。
 ──子どもは親を選べないものよ。
 彼女はどんな想いで、そう言ったのだろう。
 しかし質問の仕方を迷っている最中に、美紅のスマホが鳴った。
「姫奈子さんが到着したって」
「え、どうして姫奈子さんが?」
「呼びだしたの」
 涼しげに答えると、美紅はコーヒーに口をつけないまま立ちあがった。

 

 (第8回につづく)