第五章 オークション
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凜太郎は、ピカソの陶芸品が壇上に現れ、入札がはじまったとき、会場の隅で、両手を組んで祈っていた。
ハンマーを握る栗林社長は、贋作疑惑を受けて最後まで取り下げをすべきか迷っている様子だったが、今では何事もなかったかのように、すべての入札に目を配りながら進めている。
「いよいよ賽は投げられましたね」
凜太郎はとなりに立つ美紅に小声で囁くが、返事はなかった。顔を上げると、美紅は会場の一点をじっと見つめている。なんだろう? 会場の最後列の片隅に、見覚えのある人物が座っていた。陶芸家の熊坂羽奈ではないか。
「もう帰ったのかと思っていました」
「そんな訳ないでしょ」と、美紅は険しい表情で呟く。
そのとき、羽奈が席を立った。
美紅も弾かれたように、いつのまにか満員になった会場の通路を突き進んで、出口へと向かおうとする。しかし寸前のところで、思いがけない人物から声をかけられた。アイザックだった。
「警告したのに」と、アイザック。
「もうあなたには関係ないでしょ」
美紅は通りすぎようとするが、アイザックは阻むように手で制止する。
「君たちには失望したよ」
「悪いけど、今おしゃべりしている暇はない」
しかしアイザックは、立ちはだかったまま動こうとしない。
「取引をキャンセルするべきだ、今すぐ」
「あ、あの! 僕が代わりに話を聞きますんで。美紅さん、行ってください!」
凜太郎はアイザックを押しのけ、美紅が通り抜けるスペースを確保する。
「僕は美紅さんのアシスタントで、小洗凜太郎です」
名刺を差しだすが、「知ってる」と冷たくあしらわれ、アイザックは「下っ端と話すつもりはない」と、壇上の方へ視線を戻した。まさか、美紅に取りあってもらえなくて傷ついている?
急いで廊下に出て美紅を追いかけると、火災報知機の前で対峙している二人の姿を見つけた。「美紅さん!」と走り寄ろうとしたとき、非常ベルの甲高い音が鳴り響いた。熊坂羽奈が鳴らしたのかと思ったが、美紅が首を左右に振った。
では、誰が?
まさか本当に、火災が起こっているのか?
しかし、その場の状況を把握するよりも早く、会場の出入口から人が飛びだしてくる。彼らはスタッフ証を下げた凜太郎のことを見つけるなり、「火事ってこと?」「どこに逃げればいい?」「美術品は無事なの?」と必死に声をかけてくる。
「みなさま、すぐに原因を調べます! いったん落ち着いてください──」
そう呼びかけるあいだも、つぎつぎに人が出てくる。なかには混乱のあまり、ぶつかったり大声を出したりする来場者もいた。このままでは事故が起きかねない。とくに出入口や廊下は狭い。
「スタッフの誘導に従ってください!」
マイク越しに社長の声が響いた。会場のあちこちで待機していたスタッフや警備員が、いっせいに対応をはじめる。東オクでは毎年二回、全員参加で防災訓練を徹底してきた背景もあるうえ、直前に爆破予告があって警察に相談していたので、警備チームの動きはじつにスムーズだった。
会場後方にいた客から、順番に廊下から階段に誘導し、エントランスを通って外に案内する。建物の前は広場になっており、しばらく待機するだけの空間は確保されていた。凜太郎は美紅と羽奈を捜す。他の担当顧客と話している美紅のことはすぐに発見するが、羽奈はどこにも見当たらない。
美紅と目が合って、彼女は首を左右に振る。
熊坂さんを捜してちょうだい──。美紅の瞳が、そう告げていた。
凜太郎は会場内へ引き返し、人混みをかき分けていく。遠くはないのに、やけに長い道のりに感じる。出入口のドアを、小柄な女性がくぐっていく。
「熊坂さん!」
羽奈はふり返らなかった。
「待ってください」
もう一度叫ぶが、出入口の前で人とぶつかった。
どこに行くつもりだ?
つぎの瞬間、羽奈は壇上に飛びのった。
そして、そこにあった壺を手にとり、持ち上げる。
「お、落ち着いて」
凜太郎が咄嗟に声を張りあげると、羽奈は壺を持ったまま、こちらをふり返った。目が据わっている。
「すべての創造は破壊からはじまる!」
羽奈は、まるで宣誓文でも読みあげるように、はっきりとした口調で言い放った。残っていた来場者の数名が、羽奈の方に視線を向ける。羽奈はそのことに構う様子はなく、勢いよく壺を振りあげた。
「やめろ!」
凜太郎が叫ぶのと、羽奈が壺を床に叩きつけるのは同時だった。
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非常ベルが鳴り響いたとき、水久保はとっさに、コダマの作品は無事かと考えた。
無事を確認するまでは、会場から出るわけにはいかない。警備員やスタッフの誘導を無視して、逆方向に走りだす。
「どこに行くんですか、水久保さん!」
オークションに同席していたアシスタントから呼びとめられる。
「コダマの作品が燃えるかもしれないんだぞ、救いださなくちゃ」
「大丈夫ですよ、火も煙も見えませんし、誤作動の可能性が高いです、スタッフの方に任せましょう──」
「なにを言ってるんだ! 自分のところの作品を守れなくて、なにがギャラリストだ!」
演台の方に駆けよろうとするが、その場にいた警備員に取り押さえられる。
「お客様、落ち着いて避難してください!」
水久保は手足を振りまわして抵抗する。
「ダメだダメだ、作品も一緒だ! 自分だけ逃げるなんてありえない」
コダマが必死に描いた、あの《ダリの葡萄》が、脳内で炎に包まれている。
あんな傑作を焼失させたら、一生後悔する。コダマが描いた絵はどれも、かけがえのない一点なのだ。
──どうか君の葡萄を、僕に守らせてくれないだろうか?
あの約束を、そう簡単に破るわけにはいかない。
(第37回につづく)