第三章 変人と賢人(承前)
──ダリは、ワインについての名言を残しているの、知ってるかい?
コダマは首を左右に振りながら、先を待った。
──“ワインをつくるには、葡萄を育てる変人、それを見張る賢人、醸造する詩人、それを飲む愛好家が必要なんだ”ってね。それはアートとも通ずる。ただつくり手がいるだけじゃ成立しない。大切に預かって市場に届け、さらに転売や流通を手助けし、最終的にコレクターという愛好家が正しく保管することで歴史に残る。
コダマは食い入るように、こちらの目を見つめていた。
──じゃあ、水久保さんは賢人ですね。
水久保は肯くと、コダマに向き直って居住まいを正した。
──どうか君の葡萄を、僕に守らせてくれないだろうか?
水久保は独身だが、もし誰かにプロポーズをするときが来たら、同じような気持ちになるのかもしれない。
しかし水久保が務めていた大手ギャラリーは、コダマの作品は売れない、の一点張りだった。そもそも国内の若手作家なんて商機もないしお荷物になるだけ、どうしても扱いたいのなら独立しなさいと断られた。少なからず大手で働くことの窮屈さや不便さを感じていた水久保は、前々から迷っていた独立への準備をはじめた。今ふり返れば、コダマレイのおかげで、大手を辞める決心がついたと言える。
けれど、今の自分は、果たして“賢人”と言えるだろうか──。
「水久保さん」
アシスタントから名前を呼ばれて、われに返る。
「桜井さんがいらっしゃっています」
名前を聞いた瞬間、胃の辺りが痛んだが、水久保は顔に出さずに「わかりました」とだけ答え、カタログを閉じた。
桜井厚子は五十代後半の女性コレクターであり、この日も露出度の高いブランド物の服に身を包んでいた。胸元の開いたブラウスからは、下着が見える。目のやり場に困りながら、「お越しくださってありがとうございます」と笑顔で対応する。
「作品はいいけど、展示のレイアウトがへんじゃない?」
いきなりダメ出しか。けれど、水久保は「そうでしょうか」と笑顔を崩さない。
「そうよ。この絵とこの絵は逆の方がいいって。あとで変えておいて」
こちらの意見はおろか、それが可能かどうかも聞かず、厚子は真っ赤な長い爪で作品を指し示しながら言い放った。
「ただ、このレイアウトは作家と話し合って決めたものでして──」
「残念だわ。せっかく今日は、たくさん買ってあげるつもりで来たのに」
言いたいことをすべて飲みこんで、水久保は頭を下げた。
「ありがとうございます。レイアウトを変更します」
「それでいいのよ」
桜井厚子はかれこれ十数年来のアート・コレクターであり、その収集品は美術館の企画展に貸しだされるくらいの質と規模を誇る。ミズクボギャラリーにとっては貴重な大口の顧客だが、なんといっても曲者だった。
たとえば、「買ってあげる」という一言を印籠のように振りかざし、わがままなことばかり言ってくる。やれ旅行やコンサートのチケットを手配してほしいだの、ショッピングに付き合ってほしいだの、アートに関係なくても水久保をこき使う。
「で、来週なんだけど、行きたいお店があるの。リンクを送っておくわね」
よほど構ってほしいのか、接待の席を毎月のように準備しないと、厚子は気が済まないらしい。客の接待もギャラリストの重要な業務のひとつではあるが、経費がかさむうえに苦手な酒を飲まねばならない。厚子の話は長くてしつこいうえに、ボディタッチやプライベートに関する質問も多い。酔うと、それがますますひどくなった。
それでも、せめてもの救いとして、厚子はアート好きで、コダマをはじめ若手アーティストの話をよく聞きたがる情熱はあった。もし厚子にアートへの愛さえも感じられなければ、とっくに縁を切っていただろう。投資目的で買い漁るビジネスライクなコレクターよりも、水久保には我慢できる。
「承知いたしました」
「内心嫌だなって思ってるんじゃない?」
そうです、と答えられたらどれだけいいだろう。
「まさか。お誘いいただけて光栄です」
「よかった。価格表を送っておいて」
「ありがとうございます」と、深々とお辞儀する。
いくら厚子が理不尽なことを言ってきても、水久保は結局、彼女を追い返すことはおろか抗議さえできない。なぜなら、そんなコレクターでさえも購入してくれるなら有難いほど、経営が危ぶまれているからだ。
「明後日のオークションでも、何卒よろしくお願いします」
水久保が改まって頭を下げると、「ああ、東オクのことね」と、厚子は今まで忘れていたような口調で肯いた。コダマにとっても自分にとっても思い出深い大切な作品を、入手できようができまいがどうでもよさそうな横柄なコレクターに、必死に落札してもらおうとしている自分が情けなかった。
厚子が去ったあと、アシスタントに頼んで作品の配置を変えさせていると、西田が現れた。以前働いていた大手ギャラリーの元同僚の男性である。デザインの凝ったスーツを身にまとい香水をぷんぷんと漂わせ、裕福そうなアジア系の男性を連れている。
目が合うと、こちらに近づいてくる。
「お疲れさま、水久保さん」
西田は水久保より三歳年下で、後輩だった頃は敬語だったが、水久保が独立してからはなぜかタメ口をきいてくるようになった。
「来てくれてありがとう」
「こちらはコレクターのチャンさん。いい画家がいるんでって連れてきたんだ。気が利くでしょ?」と、西田は恩着せがましく言う。
名刺を交換すると、水久保もよく知る中華系IT企業の重役だった。水久保は展示内容について一通り説明するが、チャンはそもそもコダマの作品に関心がないらしく、観終わると早々に電話をしにギャラリーを出ていった。
「ねぇ、ここって桜井さんみたいな人にも売ってるの? 水久保さんも身体を張るねぇ」
とり残された西田は、好奇心を隠さずに声をかけてきた。
「なんだよ、その言い方は」
「だって桜井さんって、ものすごく接待させるじゃないか。とくに若い男性には目がなくて、逆セクハラするので有名でしょう? おかげで、うちでは取引禁止になってるくらいだよ」
「おいおい、そんなに悪い人じゃないよ」
水久保はそう答えながら、笑顔が引きつる。