凜太郎は沈黙を破って訊ねる。
「社長に連絡しましょうか? 社長から言われれば、さすがに宇垣さんも指示に従うでしょうから」
「待って」
美紅は物思いにふけるように、腕組みをしたまま窓辺に寄る。香織から言われたことを気にしているのだろうか。けれど、そんな性格ではないはずだ。自分の仕事を成し遂げるためには、手段を選ばないのが美紅だった。
「さっき、熊坂羽奈と話したの」
一瞬、誰のことを言っているのかわからなかった。
「ああ、例の陶芸家の? 会えたんですね」
美紅は肯き、窓の外に広がる東京湾のきらめきに視線を投げながら、なつかしそうに目を細めた。仕事中にそんな顔を見せるのは、彼女にとって珍しいことだ。
「高校のとき、熊坂さんがつくった焼き物を、ひそかに文化祭で買ったことがあるの。絵付けや形も可愛かったし、なにより手になじんで使いやすかった。社会人になるまで使い込んでいたから、割れたときは本当に悲しかったな。あの子には、また欲しいって思わせるような作品をつくる才能が、あの頃から備わっていたわけ」
「美紅さんがそこまで言うなんて、すごい方なんですね」
「ええ。だから、どうかこの予感が間違っていてほしい」
そう呟いた美紅の横顔は、見たことがないくらい悲しそうだった。傷ついているようにも思えた。そのとき、記憶をさまよっていた違和感が、一本の線につながり、凜太郎は息を呑んだ。美紅が社長に連絡し、ピカソの陶芸品を取り下げる決定を、最後のところで渋っている本当の理由は、それをつくったのが羽奈ではないかと疑っていて、古い友人を贋作者にしたくないからではないか。
*
羽奈は贋作をつくったとき、寝食を忘れて夢中になった。楽しんでいたわけではないと自分には言い聞かせているが、本当のところはわからない。ピカソの画集や文献に何冊も当たって研究し、似た土や素材を探し、ピカソの筆致を習得するために何度も練習した。自分には、贋作づくりの才能もあるんじゃないかと思えたほどだ。
たいてい自分のオリジナル作品をつくるとき、正解はどこにも存在しない。新しい町を地図もなく彷徨っているような心許なさがつきまとい、手が進まず苦しいときもある。うまくいく時間よりも、迷っている時間の方がはるかに多い。
対照的に、贋作づくりには明確な正解があった。有名な巨匠であるほどに手がかりは豊富で、あとは手を動かすだけ。複雑なパズルを解き明かすような、爽快な魅力がある。あれほど集中して作品をつくったことは、後にも先にもないかもしれない。まるで中毒者のようだった。
だからこそ、あんな馬鹿な真似をしたのだ──。
羽奈は絵付けの仕上げで、壺の底の方に自らのイニシャルを記した。まさか本物のピカソとして市場に流通するわけがない、ピカソ風の壺として安価で売買されるだけだと高を括っていた。一方で、ピカソを完璧に再現できたという達成感を抱き、そんな自分に酔っていた側面もあった。今考えると、愚か以外の何物でもない。
幸い、全体のデザインに溶け込むように、しかも、くぼみの目立たない部分に変形させて記したおかげで一目見ただけでは、署名であるとはまず気がつかないだろう。まさかその形が、熊坂羽奈を表すとは。実際に、まだ誰も目に留めていないようだ。
ただし、贋作だと発覚すれば、話は違ってくる。その不可解な形にこそ、贋作者を突きとめるヒントが隠されていると疑われて当然だ。イニシャルだと見抜く鋭い者もいるかもしれない。
いっそ贋作としてではなく、模倣品として遊びや訓練のためにつくったと主張すべきだろうか。市場に出回るとは思いもしなかったのだ、と。しかし完全にうしろめたい部分がないわけではない。かつて池岡から報酬を受けとり、ろくに売り方の確認もせず、今こそこそと会場を訪れ、賞賛を嬉しく感じていることもまた事実だ。
──気になる作品はあった?
美紅の質問が、棘のように心に引っかかって抜けない。
あのときの美紅の目は、こちらを探るような鋭さがあった。昔から勘がよく、頭の回転も速かった。だからこそ、彼女と親しくなりたかったし、実家の骨董店にも通った。
あの美紅のことだから、あの壺が偽物だと勘づいているかもしれない。あるいは、底の方にある筆跡が真の作者のイニシャルだと見抜いている可能性だってある。ならば東オクのスタッフとして、しかるべき対応をとるに違いない。警察に通報され、自分は詐欺罪などでなんらかの処罰を受けるのかどうなのか、羽奈には見当もつかなかった。
憂鬱なまま内覧会場をあとにしたが、かといって、工房に帰る気にもなれず、自ずとオークションが行なわれる大ホールに足が向いた。どういった場所で昔の過ちが取引されるのか、最後に見届けておきたかった。
内覧会場の一階上にある大ホールは、二百人は優に収容できる広さで、天井も高い。壇上にはすでにオークショナーがハンマーをふるう演台の他、作品の画像をうつすのであろう巨大なスクリーンに加えて、円やドルやユーロといった各国の為替が並んだモニターが設置されていた。スタッフが忙しそうに準備をし、席にはすでに客の姿もあり、何人か座って談笑をしている。
もう打つ手はないのだから、ここで末路を確かめてから帰ろう。
そう思って廊下に出て、洗面所を探していると、ふと、視線の先に「火災報知機」と赤い機器に白抜き文字で書かれた設備があった。
羽奈は吸い寄せられるように、設備の前で足を止めた。
以前、美術館の監視員アルバイトをしたときに、こういった報知機についての研修を受けたことがあった。スイッチが押された場合、すぐさまスプリンクラーや防火扉が始動するわけではなく、まずは防災センターのような場所に通報がなされるという。彼らが安全を確認するまで、来館者は避難しなければならないと聞いた。また、美術品を扱う施設の場合、水が出るスプリンクラーではなく、特殊なガスによって消火がなされるため、作品が傷つく心配もないのだとか。
「これを押したら、どうなるんでしょうか?」
心のうちを見抜くような一言が聞こえてきて、羽奈は「わっ!」と声を上げた。
誰なの? ふり返ると、一人の見知らぬ女性がぼんやりと立っていた。
「驚かせてすみません。ただ、こういうボタンを押したら、やっぱり美術品がずぶ濡れになっちゃうもんですか?」
俯いたまま、彼女は訊ねる。顔がよく見えない。
「えっと……私の知る限りでは、たぶん大丈夫だと思いますけど。ただ、会場は混乱するんじゃないでしょうか」
「混乱、ですか」
女性は独り言のように呟いて目をすがめると、「ありがとうございました」と頭を下げて踵を返した。ただならなぬ凄みを察して、羽奈はなぜか背筋が冷たくなった。彼女もまた自分と同じように、抜き差しならない事情を抱えているように思えたからだ。
(第四章・了/第35回につづく)