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第五章 オークション(承前)

「おい、そんな無礼な言い方はないんじゃねぇか!」
 藍上が佳代子ににじりよるところを、安村は止めに入る。
 藍上だって、今日の結果にショックを受けているに違いない。自棄でどんな行動をとるかわからない。
「申し訳ありません! 妻はアートに関してなんの知識もなくて、失礼なことを申しているだけで──」
「知識がなきゃ発言権もないなんて、ずいぶんと排他的な世界なのね、アート業界って。ますます嫌悪感を抱くわ。あとね、藍上さん。今回さんざんな結果だったのに、ずいぶんと偉そうな物言いをなさるのね。夫はあなたのせいで、こんな恥をかかされたんですよ。あなたに真の才能があったら、夫はもっと幸せなはずでした。これはあなたの責任でもありますよ」
 藍上が悔しそうに唇を噛みしめる。佳代子と結婚して何十年も経つが、こんなにも弁が立つとは知らなかった。困惑するばかりだった安村も、藍上に同情しつつ、つい佳代子の物言いに惚れ惚れしてしまう。
 しかし藍上も藍上で、プライドを傷つけられたまま黙ってはいない。
「なに言ってんだ! 亭主は、好き好んで俺の作品を買ったんだろ? 俺は押し売りしたわけでもなきゃ、その場にさえいなかった。それなのに、なんで俺のせいにされなきゃいけないんだ? 亭主の見る目のなさを呪いな」
「もちろん、夫に審美眼はない。これっぽっちもね。ただ知ったような顔をするのが上手いだけです。それは私も認めます」
 認めるのか、と安村は内心ツッコむ。
「でもあなたにだって責任はあります。あなたは人様に自分の作品を買ってもらっている以上、世間に才能を証明しつづけなければならない。それは応援してくれている人たち全員への義務です。義務を果たせないのは情けないし、あなた自身の力不足が原因に他なりません。その罪深さを認めなさい!」
 藍上は頬を紅潮させ、髪を逆立てんばかりに佳代子を睨みつける。暴力に訴えないとも限らない勢いなので、安村は冷や冷やしっぱなしだ。それなのに、佳代子は藍上を煽るように言いつのる。
「つまり、あなたも含めて、ここにいる全員が、虚栄心の塊か、その被害者なのよ。もううんざり。そんな醜い集団から金を巻き上げようなんて、芸術家も、このオークション会社で働いている人たちも、みんな詐欺師よ! 恥を知れ!」
 佳代子は一気に人がいなくなった会場を見渡しながら、そう叫んだ。
 叫び声を聞きつけたのか、警備員が走ってくる。
「そこの三人、早く避難指示に従ってください!」
「避難する必要はありません。火災報知機を押したのは私なんです」
 佳代子は聖女のような穏やかさで告白した。
 一人だけ切り替えが早すぎて、ついていけない。藍上も同じらしく、不完全燃焼といった感じで口をパクパクさせている。
「えっ?」と、警備員も頓狂な声を上げる。
「火事があったわけではありません。申し訳ありませんでした」
「では、いたずらということですか?」
「いたずらというわけでもないんですが」
「と、とにかく詳しく話を聞かせてください」
 走ってきた別の警備員とともに、バックヤードへと促されるあいだも、佳代子はまったく抵抗する素振りを見せなかった。ただ藍上だけが、怒りの矛先を奪われたことに納得がいかないのか、「言っておくが、俺の作品は海外のオークションじゃもっとずっと高値で売れてたんだからな! 一億近い金額で取引されたこともあるんだぞ」と、負け惜しみのように叫んでいる。佳代子は安村に向かって勝ち誇ったように、私の言った通りでしょと言わんばかりの視線を投げた。
 そのとき、男性の悲鳴が聞こえた。
「やめろ!」
 見ると、小洗が演台にいる女性と対峙していた。
 ガチャンッという、なにかが粉砕される激しい音が響く。展示台にあったはずのピカソの壺が、床の上で割れていた。
 
 *
 
 バックヤードには二人の女性が連れていかれた。一人は安村の妻である佳代子、もう一人は熊坂羽奈だった。佳代子の方は、そこまで罪は重くない。単なる腹いせで火災報知機を押しただけなので、話の聞き取りもそこそこに打ち切られた。
 それに比べて、羽奈の方は厄介だった。
「あの壺は、ピカソの作品なんかじゃありません。画商である池岡さんの指示で、私が昔つくった贋作に過ぎないんです」
 警察が来るまでのあいだ、羽奈は投げかけられる質問にすらすらと答えた。それは協力的といってもいい態度だった。その場には、ピカソの壺の担当者だった香織や、出品者であるコレクターの西野の姿もある。
「まさか、信じないぞ!」
 西野が顔を赤くして反論する。「あの壺は間違いなくピカソだ。贋作なわけがないだろう!」
「まぁまぁ、落ち着いて」と、栗林社長がとりなす。
「社長、落ち着くなんて無理です! 壊されたあの壺には、古いサーティフィケーションも付いていますし、取り扱い画廊のステッカーだって何枚も内箱に貼られている。東オクの方々にも十分な査定をしていただいたでしょ?」
 西野は香織の方をふり返ったが、香織は気まずそうに目を逸らした。贋作疑惑を知っていて出品を取り下げないと主張したのは他ならぬ香織なので、下手なことを言って墓穴を掘るのを恐れているのかもしれない。
「なにより、大金をはたいて買った私の私物を、あんなふうに壊すなんて、犯罪以外のなにものでもないじゃないか」
 西野の叫びにも動じず、羽奈は低い声で主張する。
「でも、本当なんです。これ以上嘘をついて、騙される人をつくりたくなかった。この作品が市場に流通しつづける限り、私は自分を許せず、うしろめたさを抱え続けながら、生きていかなければならない。そんなのはもう嫌です。だから、この作品を破壊するしかなかったんです。私にはどうやっても止められなかったから」
 羽奈は両手で顔を覆い、その場で泣き崩れた。その背中の上に、旧友であることは周囲に黙っている美紅が、そっと手を置く。
 羽奈の泣き顔を見ながら、凜太郎はもう、彼女の言う通り、その壺は贋作だと認めずにはいられない。
 どれだけの罪悪感が、その肩にのしかかっていたのだろう。大変な事態に陥らせた張本人であることを一瞬忘れ、羽奈に同情してしまう。
 しかし、西野の態度は変わらなかった。
「いや、みなさん、これこそ彼女の作り話ですよ。だって、あり得ると思いますか? こんなにも大勢が、ピカソの壺だと太鼓判を捺した作品なんですよ? こちらの外国の方だって、オークションのときに札を挙げてらっしゃったじゃないですか。ねぇ?」
 西野の視線の先には、ロンドンから来たという香織の知人のキュレーターが立っていた。香織が通訳をはさむと、大きく肯いてしゃべりはじめる。
「私はロンドンの美術館で近代美術を研究していますが、もしこれが本当に贋作ならば、あちらの陶芸家の女性は天才です。ただ、その場合、素晴らしい才能が、卑劣な犯罪に使われたことは残念ですが」
 それを聞いた羽奈は顔を伏せたが、キュレーターは構わずに、羽奈に冷たい視線を送りながらつづける。
「ときに私たちはプロとはいえ、間違った鑑定をしてしまいます。よく、世界中の美術館所蔵品の一割は贋作である、と言われるほどですからね。だからこそ、関わっている専門機関は、しかるべき対応をすべきなのです。とくにオークションハウスはね」
 彼は早口ながら、ときおり吃音が混じっていた。キュレーターとして贋作を見抜けなかった恥ずかしさと、プライドを傷つけられた憤りのせいだろう。
「本当に、東オクでは十分な調査をしたのですか?」
 キュレーターは社長を睨んだ。
「ええ、もちろん」
「贋作だという疑いを持たなかったのですか?」
 社長は黙ったまま、天を仰ぐ。これ以上、嘘をつくのは限界だ、と白旗を上げそうな気配があった。でもここで認めれば訴訟問題に発展しかねない。事実、東オクはアイザックからの指摘で、その可能性に気がついていたのに、オークションを決行した。
 その経緯が明るみに出れば、世間から、羽奈と共犯だと受け止められても仕方ない。そうなれば、東オクは、ただでさえ順調とはいえない経営の状況下で、顧客からの信頼をすべて失う。もう終わりだった。

 

                        (第40回につづく)