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第一章  ラブ・アンド・マネー(承前) 

 
 有明エリアには、りんかい線やゆりかもめが走っている。きちんと区画整備された街路と大きなビルが立ち並ぶ風景は、近未来に迷いこんだような世界が感じられる。凜太郎は煮詰まると、ビルの屋外スペースで、海や巨大な橋を眺めながら、ベンチに座ってランチをとっていた。
 さっきの美紅は、なんだったのだろう──。
 富永響子の対応をしているとき、それから、対応後に凜太郎が軽口を叩いたとき、おそらく美紅は怒っていた。あんな風に、怒りをあらわにする美紅の姿に、凜太郎は驚かされていた。むしろ、ビジネスマンは自分の感情を隠すことができて一人前というのが、これまで美紅の信条のようだったからだ。
 もやもやしながら、春の日差しを浴びる海面をぼんやりと見ていると、背後から声をかけられる。
「おつかれさん」
 ふり返ると、思いがけず栗林社長が立っていた。
 慌てて立ちあがろうとする凜太郎を制し、栗林社長はマルボロに火をつける。この辺りは喫煙スペースでもあった。
「はぁ、まったく参ったよ。爆破予告の件」
 他の業務で手のまわらない社員たちに代わって、社長はその件の対応を一手に引き受けている。オークションハウスとはいえ、社員数が決して多くない中小企業なので、仕方のないことだった。
 全員で共有されている情報によると、方々とやりとりして会議も重ねて、なんとか中止は免れそうだ。ただし、そのために、警備会社との契約も強化し、競りの会場もうつすことになるのだとか。
「お疲れさまです、本当に」
「それより、こんな時間に昼飯か?」
 社長の視線は、凜太郎の膝の上に広げたハンカチと、食べかけのサンドイッチに向いていた。
「あ、はい。とつぜんの来客がありまして」
「富永家の令嬢に手を焼いてるんだって?」
「そうなんです」
 ここ数日間の経緯をあらいざらい報告すると、社長は笑った。
「ははは、冬城から報告を受けてはいたが、小洗の口から改めて聞くと、いかにも冬城らしい対応の仕方だね」
「そうでしょうか? 僕には意外というか、美紅さんがあんなに感情を表に出すなんて、かなり意外でした。姫奈子さんには、どんなに理不尽なことやわがままを言われても、びくともしないで冷静だったのに」
「自分と重ねているのかもしれんな。あいつも苦労してきたから」
「えっ? まったくそんなふうに見えませんが」
 しかし思い返せば、美紅の過去について、凜太郎はなにも知らなかった。
「その辺りのことは、本人から聞くといいさ」
「いや……でも、僕に話してくれるとは思いませんが」
「おいおい、小洗。そうじゃなくて、話してもらえるくらいの信頼関係を自ら築くんだ。一緒に仕事をすることが増えているんだからな。それは、スタッフ同士だけじゃなく顧客とのあいだも同じことだぞ。オークションは水物だからこそ、信頼関係の上にしか成り立たない。だから顧客の信頼を得ることは、すべての仕事の基本なんだ。もっと言えば、俺たちの仕事は高い金額で落札させることじゃない。顧客一人一人の望みをくんで、いかに満足度を上げるかだ」
 凜太郎は、胸が高鳴った。
 下っ端の社員を相手に一対一でそんな話をしてくれるなんて──。
「どうすれば、信頼って得られますか?」
 思い切って訊ねると、社長はこちらをまっすぐ見ながら答える。
「この業種に限っていえば、アートへの愛。それに尽きるかもしれんな。どれだけ、アートに情熱をかけられるか。アートと人は同じようなものだ。アートを見る目と、人を見抜く目はよく似ているからね」
 あいまいに肯きながら、凜太郎は社長の逸話を思い出す。
 自分でも作品をたくさん持っている社長は、いまだに身銭を切って、アートを買いつづけているらしい。欲しい作品があれば、時間や労力を惜しまずに追いかけていく。数年前、運転していた車が事故に遭ったときも、作品の無事をまず確かめてから、気を失ったのだとか。
 国内では数少ないオークションハウスを苦労の末に起ちあげたのも、日本の美術市場を守りたい、日本の優れた美術品が海外に易々と流出することを防ぎたい、というロマンに突き動かされたかららしい。
 そんな社長だからこそ、美紅も共鳴したのかもしれない。
 美紅のふるまいをふり返っても、似たような姿勢を感じた。
 たとえば、乾山の茶碗を探すのだって、凜太郎がどこに問い合わせても見つけられず、諦めようとしていたところを、美紅は絶対にあると譲らなかった。ついには他の仕事そっちのけで、難航する交渉に電話で助け舟を出してくれた。彼女がいなければ、乾山の茶碗は入手できなかっただろう。
 また、東オクが《一九二枚の一ドル札》の出品にこぎつけたのだって、美紅が前の持ち主のところへ熱心に通い、口説き落としたからだと聞いている。相当な努力と人脈があったからこそ、あれほど価値の高いものを集められたのだろう。今回のセールスでは、その持ち主から出品された多くが登場する。
 社長の言う通り、この仕事の基本は信頼関係であり、アートへの愛なのかもしれない。
 
 *
 
 キャサリンズの事務所は、ハリウッド映画に登場する、洗練された外国のオフィスそのものだった。
 父とともに訪れた姫奈子は、オフィスのあちこちに飾られたポップなアート作品に、いちいち目を奪われてしまう。アートに詳しくない姫奈子でも、世界の美術市場を牛耳る、憧れの場所に招待された心地だった。
「キャサリンズはブランド力のある大手オークションハウスだ。私も何人か知り合いがここで買い物をしていて安心だし、私がここで買ったことにしておけば、響子も納得してくれるだろう」
「……そうだね」
 結局、私のためじゃなくて響子さんの機嫌をとるためじゃないの──という指摘が口から出かかるけれど、ぐっと飲みこむ。
 ここに連れてきてくれただけでも、父なりの優しさを感じていた。響子や愛子の手前、いつもは傍観するだけだが、早くに実母を亡くした姫奈子に同情はしているらしい。距離のとり方を迷いながらも、お金を使うことに躊躇はない。むしろ、姫奈子に対しては、愛情をお金で表現しているような節があった。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
 やがて受付の前に、愛作が現れた。
 先日のパーティで名刺交換したときと同じく、上品な香水がふわりとただよう。完璧な日本語を使いこなしながら、堂々とした立ち振る舞いや、すらりとした背格好、そして整った顔立ちには改めて見惚れる。高級そうなスーツに身を包み、傷ひとつない靴を履いて、颯爽と歩いていく。
 この人はいったい、どんな経歴を積んできたのだろう。
「こちらへどうぞ」
 案内されたのは、広大な緑に囲まれた皇居を真下に望む、窓の広くとられた応接室だった。
「今日はわざわざ時間をつくってもらって、すみません。一度、娘をあなたに会わせたいと思いましてね」
 父が誰かに敬語を使っているのは、珍しいことだった。愛作は笑顔で肯いたあと、こちらをまっすぐ見つめた。姫奈子はつい、赤面してしまう。
「ウォーホルの《一九二枚の一ドル札》を入札するご予定とお伺いしました」
 はい、と小声で呟く。
「たしかに《一九二枚の一ドル札》は、ウォーホルの代表的作品です。今回東京オークションで出品されるものは、質、状態、ともに悪くない。しかし同じものが複数存在する版画である以上、投資価値が高いかと問われれば、首を傾げます。コレクターであれば、転売することを見越して、作品価値を見極めるべきです。だとすれば《一九二枚の一ドル札》に今投資すべきなのかは、微妙なところです」
 よどみなく説く愛作の話に、姫奈子は聞き入ってしまう。
 気がつくと、自分がなぜ《一九二枚の一ドル札》を欲しいと思ったのか、その出発点を見失いそうだった。
「キャサリンズでは、これまで数々の名作を取り扱ってまいりました。現在も、ニューヨーク、ロンドン、香港などの支店で、ウォーホルの作品は取引されていますが、お嬢さまにはわけても傑作を手に入れていただきたく存じます」
「というと?」
 父が代わりに訊ねる。愛作はふたたび、口角を上げた。
「われわれはどの国の誰が、どういった作品を持ち、どのタイミングで売りたいと考えているのかを、幅広く把握しています。遠慮なく申し上げれば、そうした国際的ネットワークを持っているのは、キャサリンズだけです。いわば弊社のお客さまは、そうしたネットワークを頼って、うちにお越しになるのです」
「それは安心ですな」と、父はほほ笑んだ。
「ええ。大船に乗った気持ちで、買い物をお楽しみください」
 そう言うと、愛作はふたたび姫奈子のことを見た。「ですから、あまり急がず、もう少し検討なさるのもひとつの方法かと思います。ウォーホルの素晴らしい作品が市場に出るという情報があれば、真っ先にご連絡をしますので」
 父は満足そうにほほ笑むと、こちらを見てくる。
「それでいいね、姫奈子?」
「……うん」
 愛作の売り文句に負けたわけではない。父が自分をきちんと扱ってくれているという状況が、姫奈子の口を封じた。この場に流されていた方が、楽かもしれない。自分の意志なんて貫かず、黙って従っておく方が、自分にはふさわしい気がする。せっかく父も、こうして自分に構ってくれているのだから──。
 しかし愛作は、ウォーホルの話題が終わると、姫奈子のことは見なくなった。
 お金を支払う立場であり、いわば財布役の富永酉之介に向かって、つぎのセールスや今の市場の流れについて滔々と語った。酉之介の顔つきも途中から、父ではなく投資家のものに変わっていた。姫奈子は結局、ここでも蚊帳の外だった。

 

 (第7回につづく)