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第三章 変人と奇人(承前)


 *

 三月の夜は、風が冷たい。
 午後七時過ぎまでオフィスにいた凜太郎は、美紅から夕食のお遣いを頼まれた。
 コートのポケットに手を入れながら、お弁当やお惣菜が売っているショッピングモールへと足早に歩いていく。道中、路地に面した雰囲気のいいレストランの窓越しに、水久保の姿を見かけた。
 そろそろオープニングも終わる頃か。でもまた会うなんて。
 そう思ったとき、水久保の向かいに座っている美女に目を留める。あの人はたしか、と凜太郎は記憶を探る。オークションハウスに就職してから、一度会った人の顔と名前をできるかぎり覚えるために、名刺を定期的に見返すなどして工夫を重ねていた。その甲斐あって、すぐさま閃く。
「キャサリンズだっ」
 思わず、凜太郎は口に出していた。水久保と一緒にいるのは、キャサリンズによく出入りしているコーディネーターだった。一度会ったときに、美紅から要注意だと聞かされた人物である。清楚で上品な外見とは裏腹に、贋作を扱ったりヤクザなやり方で転売を持ちかけたり、悪質な噂が絶えないコーディネーターなのだとか。そもそもコーディネーターという肩書があやしすぎる。
 どんな話をしているんだろう。よく見れば、いつも温厚でにこやかな水久保が、苦々しい表情をしている。店内には厚手のセーターを着た人もいるのに、水久保だけがしきりに汗を拭い、落ち着きなく周囲を見回していた。
 さきほど美紅から、ミズクボギャラリーの危機的状況について聞いた経緯もあって、悪い予感を抱いた凜太郎は建物の陰に隠れて、美紅に電話をかけた。
「もしもし、美紅さん──」
「海苔弁、完売してた?」
「いえ、違うんです! まだ双葉亭には到着してなくて──」
「早くしないと売り切れちゃうじゃない」
 凜太郎はスマホを持ち変えて、美紅をなだめるように言う。
「それが今、水久保さんをお見かけしたんですが、美紅さんが要注意だって言ってたキャサリンズ界隈の女性と二人きりなんです」
 美紅は押し黙ったあと、淡々とした口調で訊ねる。
「今、どこにいるって?」
「ショッピングモールまでの道すがらです」
「挨拶した?」
「いえ、僕のことには気がついていません」
「じゃ、写真撮って送って」と、美紅は堂々と言い放つ。
 盗撮ってことか。凜太郎は慌てて「無理です」と返す。
「気がつかれてないんでしょ」
「ただお茶してるだけかも。普通に友だちで」
「本当にそう思ってるなら、どうして私に電話してきたわけ?」
 たしかにその通りだった。「やってみます」と言って通話を切り、凜太郎は通行人がいないタイミングを見計らって、ふたたび店の前に戻り、生垣の隙間から腰をかがめてスマホを向けた。シャッター音が鳴り、心臓が跳ねるけれど、幸い、水久保もコーディネーターもこちらに気がついていない。すぐさま撮影した画像を美紅に送信した。一秒後に着信音が鳴った。凜太郎はふたたび建物の陰に戻って、「もしもし」と出る。
「その人、以前オークションでサクラを呼んだんじゃないかっていう疑惑がある中国人のコーディネーターよ」
「えっ、相当ヤバいじゃないですか!」
 サクラとは、落札するつもりがないのに入札をして、他の入札者を煽って不当に落札額を吊り上げる者のことを指す。たいてい組織ぐるみで行なわれ、特定の入札者が標的にされることが多い。
「仮に、水久保くんが明後日コダマレイの《ダリの葡萄》の競売にサクラを呼んで、落札額を不当に高くしようとしているならば大問題よ。追い詰められすぎて冷静な判断ができなくなっているのか。まさか彼がこんなことするなんてね」
「そ、そうですよ。いくらなんでも無茶です、水久保さんらしくないし」
 戸惑う凜太郎に、美紅は冷静に答える。
「そうね。早合点する前に、まずは探りを入れましょう。今夜キャサリンズでパーティがあるはずだから」
「そうでしたね、行ってみましょう。あっ、双葉亭のお弁当はどうします?」
「いいから帰ってきなさい」
 苛立つように言い、美紅は通話を切った。店内をふり返ると、まだ水久保は深刻そうな表情で、コーディネーターと話しこんでいる。周囲が一切目に入っていないようで、凜太郎の不安は膨らんだ。

 *

 午後七時前、水久保は指定されたレストランで、自称コーディネーターの中国人女性と向かいあって窓際に座っていた。
 内心、もう少し奥まったところで話さないと誰かに見られるかもと心配だったが、切りだすタイミングを失った。うしろめたさのせいで神経質になっているだけだ、と自分に言い聞かせる。
 彼女の名前はライ・リー。年齢不詳で、ぱっと見では同世代かと思っていたが、間近で向かい合うと、目元の皺やほうれい線に気がつき、自分よりもずっと年上かなと思う。店員が注文をとりに来るが、彼女は「コーヒーで」とだけ答え、水久保もそうした。
 手に汗をにじませて逡巡するこちらをよそに、中国人女性は運ばれたコーヒーを優雅にすすっている。
「水久保さんからは、お問い合わせいただけると思っていました」
 思いがけない一言に詰まりながらも、「どうしてですか」と訊ねる。
「先日お会いしたとき、ご興味がありそうだったので」
 そんなふうに思われていたのか、と戸惑いながら水久保は咳払いをする。
 はじめてこのコーディネーターに会ったのは、一ヵ月ほど前にひらかれた他のギャラリー主催のパーティだった。前職の頃から付き合いのあるコレクターから、有能なコーディネーターだと紹介された。アート業界では素性の知れない者とよく出くわすが、彼女もまたその一人だった。
 パーティのあと、そのコレクターと飲みにいくと、さきほどのコーディネーターにサクラを頼んで作品を高値で売ったと打ち明けられた。水久保は耳を疑ったが、相手はバレない程度にみんなやっていると話した。
「本当にサクラを手配していただけるんですか?」
「ええ」ライ・リーは笑顔で肯いた。
「失敗とか、しないんでしょうか?」
「しませんよ」と、さらりと断定する。「落札予定の方は、こちらの桜井厚子さんでよろしいですね?」
 ライ・リーはどこで入手したのか、桜井の写真をタブレットに表示させた。
 普段は忌々いまいましい顧客だが、こうして顔を見せられると腰が引ける。
「でも、まだ確定ではないんですが……」
 罪悪感がないわけではない。それどころか、これまで幾度となく作品を買ってくれた桜井に対して、申し訳なさが募っていく。サクラを雇ったことが知られれば、ただでは済まされない。水久保は今すぐ白紙に戻し、この場を去りたい衝動にかられるが、なぜか身体が動かない。

 (第21回につづく)