第三章 変人と奇人(承前)
「ご安心ください。会場に参るのはサクラのプロです。他の方が相手でも、巧みに入札を引き出してみせます。一人でも他に入札者がいれば、この計画は失敗した試しがありませんからね」
「そう……なんですね。でもやっぱり、バレないでしょうか」
「バレません」
こちらを見据えるライ・リーの目には、尋常ではない説得力があるが、逆に、その得体の知れなさは水久保を怖じ気づかせた。反射的に立ちあがっていた。
「いや、駄目だ! すみません、やっぱり僕にはできません。ここまで来てもらって心苦しいですが、この話はなかったことにしてください。万が一、この件が漏れてしまったら最悪です」
しかしライ・リーは落ち着いた物腰で、片方の手のひらをこちらに向けた。
「まずは落ち着いてください。ここでの話は、私とあなただけの秘密です」
「いや、いけません。顧客だけじゃなく、所属アーティストからの信頼も裏切ることになります」
「でも、ご決断なさったのは、コダマレイさんのためなんでしょう?」
水久保は返答に詰まる。ライ・リーは励ますように、穏やかなトーンでつづける。「あなたは私利私欲のためにサクラを呼ぶわけじゃない。応援したい相手のために、身体を張って助けようとしているだけです」
優しい言葉をかけられ、水久保はふたたび腰を下ろして「いや、でも結果的に、僕はコダマを不幸にしているのかもしれません」と、つい本音を漏らす。
「だったら尚更、われわれを信じてください」
水久保の脳内の一部が、しだいに麻痺していく。
「……はい」
「水久保さんのように、所属アーティストのために相談に来られた方は、過去に何人もいらっしゃいました。みなさん、満足のいく結果を得られ、結果的に喜ばれています。あなたはなにも犯罪に手を染めるわけではなく、ただ、ほんの少しの仕掛けをするだけ、作品が正しい値段で売れるためのお手伝いをするだけです」
相槌を打つ隙を与えず、ライ・リーはつづける。
「たしかに水久保さんが疑う通り、サクラはリスクが高い割りに、こちらのマージンは三割程度と微々たるものなので、割に合わない仕事ではあります。しかし私の存在意義は金銭以上に、市場を支配しているという事実なのです」
「市場を支配する」と、水久保はオウム返しする。
「はい。市場価格というのはある程度、操作されています。ファッション業界における流行の色やデザインと一緒で、ごく一握りの人間が集まって、じゃあつぎはあのアーティストを活躍させようというふうに情勢を操っています。それは長い歴史のなかで確立したルールであり伝統です。そのように操作できることにこそ価値を見出し、そこに投資する者もいます」
「あなたは、オークションハウスに雇われているんですか?」
「まさか」と、ライ・リーはダイヤの指輪をつけた手で口元の笑みを隠した。「利害が一致する相手とうまくやります。そういう意味では、私もあなたと同じように、コダマレイさんの作品はもっと高く評価されるべきだと思っています」
ライ・リーのほほ笑みを見ていると、善悪の判断がつかなくなる。目の前にいる彼女こそが、自分にとっての勝利の女神なのではないか。水久保は捨て鉢な気分で、冷めきったコーヒーを飲み干した。
「じゃあ、お願いします」
「お任せください」
席を立った瞬間、激しい自己嫌悪に襲われたが、すぐに思い留まる。これはすべてコダマのため、所属する他のアーティストたちのためだ。桜井厚子は気に食わない顧客なのだから、たまには多く払ってもらおうじゃないか。どうせ金持ちなのだし、これまでのハラスメントへの代償と言ってもいい。
必死に自分の選択を肯定しながら、店の出口に向かったとき、同じように出ていこうとする客と鉢合わせした。
まさかの、コダマだった。
しかも傍らには、大手ギャラリーの元同僚、西田がいた。
*
港区にある外資系ホテルのレストランを借り切ったキャサリンズのパーティは、なにもかもが桁違いだった。招待された顧客の数、その国籍や人種の多様さ、会場の豪華さ、振る舞われるワインの価格、すべて東京オークションなど足元にも及ばない。
「す、すごい」
凜太郎が思わずこぼすと、美紅は厳しく返す。
「惑わされちゃ駄目よ。大事なのは、一人一人の顧客にとってどれほど満足のいくサービスを提供するか。関わった人みんなにとって最大限ウィンウィンになる結果を導くことが東オクの社訓よ」
「たしかに……弱気になってる場合じゃないですね」
そのとき、招待客と談笑をするアイザックの姿を見つけた。
「行くわよ」
美紅が近づいていくと、アイザックは「おや、あなたは来ないかと思っていました」と優雅にほほ笑んだ。一緒にいた客は別の相手を見つける。
「ご招待いただき、ありがとうございました。本当は、他社のパーティに来る暇なんてないんですが、要件があって伺いました。この方はご存じですよね?」
美紅はスマホにうつしたコーディネーターの写真をアイザックに見せた。
「ええ、彼女とは時折、取引をしています」
「取引? 悪い噂も耳に届きますが」
「なにを言っているのかわかりませんし、噂なら確証はないでしょう?」
「火のない所に煙は立たぬ。彼女は水久保さんに接近しているようですが、あなたの差し金ですね?」
「まさか。そんなことをして、われわれになんの得が?」
「もしサクラが表沙汰になれば、ミズクボギャラリーの信頼が失墜するだけでなく、《ダリの葡萄》のセールも白紙に戻され、東オクも損失を受けます」
「しかし、われわれとは関係のないことです」
アイザックは困ったように肩をすくめた。
「相変わらず、やり方が汚いですね。曽我さんにしても、もとは水久保くんが手塩にかけて育てていたのに」
美紅は言いながら、パーティ会場でひときわ存在感を放つ、大勢に囲まれて写真撮影や握手に応えているアーティスト、曽我の方を見つめた。
なにを隠そう、曽我はもともとミズクボギャラリーに所属していたが、今では離脱してキャサリンズから作品を売りだしている。キャサリンズはオークションハウスでありながら、稀にアーティストと直接契約して、新作をオークションにかける場合もあるのだ。曽我はそうした例の筆頭だった。
曽我はミズクボギャラリーに在籍していた頃はまったく売れなかったが、キャサリンズに移籍すると瞬く間に人気に火がついた。大きな美術館から個展の依頼が舞い込み、有名なコレクションに何点もが収蔵された。今ではさまざまな場で曽我の名前を見かけるようになったが、その背景には、下積み時代に根気強く水久保が支え、制作に助言を与えていた成果もあるはずだった。