「どうして冬城さんがここに?」
なつかしくて心弾ませながら訊ねると、美紅は名刺を出した。
「私、ここで働いてるのよ。東京オークションの社員なの」
「えっ、知らなかった」
羽奈は進学校だった高校を卒業したあと、地方の窯元に弟子入りした。実家までは片道三時間かかるうえに、休みも少なかったので、大学生になった他の同級生と距離ができた。その後、極貧だった下積み時代は、くだらない意地もあって、いよいよ集まりの誘いも受けなくなってしまった。
美紅のことは忘れなかったし、たまにどうしているのかと気になったが、実際に連絡をとったことはなかった。今になって、オークションハウスに就職した、といつだったか元同級生の誰かに聞いたことが頭をよぎるが、長らく忘れていたし、まさか東京オークションだとは想像もしなかった。たとえ業界で美紅の名が知れていても、羽奈はあくまで制作する側の陶芸家で、絵画を中心とする美術市場の人脈にそこまで詳しいわけではない。
「……冬城さんにぴったりの仕事だと思う。すごくカッコいい」
同級生の眩しい姿に誇らしくなりつつ、うまく笑えない。
「それを言うなら、熊坂さんもだよ。本当に陶芸家になったんだもん。活躍を知ったのはたしか五年くらい前かな。たまたま雑誌で見かけて以来、ずっと追ってきた。どこかで再会できるのを楽しみにしてたんだ」
「ありがとう」
おそらく心からの美紅の賞賛に、今度は羽奈がお礼を伝える番だった。
しかし羽奈は、自分がここに来た本当の理由と、ついさっきまで本気で使おうとしていたあれの存在を思い出し、身震いする。
あえて声色を明るくして、「それで、今日ここに来たのはね、純粋に興味があったの。私の作品を買ってくれるお客さんのなかにも、オークションを利用する方がいるから。オークションって誰でも見学できるんだね。それに、いろんな作品があって、見ごたえがあったよ」と、自分から言い訳をはじめていた。
「ありがとう」
「オークションの仕事ってどう? 忙しい?」
さりげなく話題を変えたとき、会場の遠くの方に、池岡の姿があった。
ぞっとした。美紅がこちらの視線を追って、ふり返る。
「あの人、知り合い?」
「ううん」と、咄嗟に嘘をつく。
「そう、よかった」
よかった? 怪しい画商だから関わりがなくて、よかったってこと? 美紅は池岡の素性を知っているということか。だとすれば、こちらが池岡と面識があることを見抜かれてはいけない、絶対に。幸い、池岡はすぐに別の方向に消えていった。他の人と話していて、羽奈には気がつかなかったようだ。胸を撫でおろしていると、美紅がこう訊ねてきた。
「熊坂さんは独立する前、どうしてたの?」
問いかけの意図がわからないまま、羽奈は答える。
「えっと……陶芸教室の先生に紹介してもらった方のところで修業したあと、その方からおすすめされた地方の、土のいい場所で窯を構えたんだ。こっちに戻ってこられたのはごく最近だよ」
「そっか。はじめは大変だったんじゃない?」
たしかに大変だったからこそ、贋作をつくったのだ。
「えっ? ううん、そんなことないよ。先生たちもよくしてくれたし、応援してくれる人もいたから」
美紅はほほ笑んでから、仕事人の顔つきに切り替わった。
「それで、今日はなにか目当ての作品でもあったの?」
「そういうわけじゃなく、フラッと立ち寄っただけだよ」
「じゃあ、どれか気になったものは?」
急に質問を重ねられ、羽奈は平静を装うのでやっとだった。
「わからないな。まだ見学してないから」
「でもさっき、見ごたえがあったって言ってなかった?」
しまった──。
「あ、えっと、まだ見学してないエリアもあるってこと。会場が意外と広かったから。ごめん、私、つぎの予定が詰まってて、もう行くね。名刺、ありがとう。また連絡する」
慌てて言い残し、もと来た道を引き返した。我慢できずに、ちらりと振り返ると、美紅はまだその場に立って、こちらを見つめていた。羽奈はとっさに笑顔をつくり、手を振ったあとは小走りになり、一度も振り返らなかった。
*
アイザックが東オクを去った三十分後、宇垣香織がオフィスに戻ってきた。
オークションは午後二時からで、あと三時間もない。中止にするならば、すぐに関係者にアナウンスをかけ、進行表にも変更を加える必要があった。電話で簡単にいきさつを話していたとはいえ、香織の表情には動揺の色が濃かった。会議室に入りドアを閉めると、開口一番で言った。
「今更、取り下げなんてできないわ」
社長は別件で席を外しており、会議室には美紅と凜太郎しかいなかった。
「でも冷静に考えれば、わかるわよね? たとえ今日落札したとしても、このことが漏れれば責任問題になるし──」
「わかってる。ただ、本当に贋作だったら、という話でしょ?」
香織は青ざめながらも、強い口調で遮った。
「キャサリンズからの情報なのよ」
「だからこそ。うちにとっては商売敵に違いないのに、素直に信じるわけ? それに自分のことは言いたくないけど、私は今回のピカソの陶芸品を出品してもらうために、何年もかけて交渉してきた。コレクターと信頼関係を築き、やっと漕ぎつけた案件なのよ。それなのに中止にすれば、コレクターは激怒して、今までの苦労が水の泡になる」
「それは逆よ。真の信頼関係ができたなら、他の作品を出品してもらえる可能性は残る。もし今、贋作とわかっていて出品すれば、その方が出品したそのコレクターにも迷惑がかかることになるのよ」
香織は唇を噛んだ。
「少し考えさせてほしい」
「悪いけど、もう時間がないの」
美紅の冷静な声に、香織が小さく舌打ちをするのが聞こえた。
「だったら、答えは明白。出品はそのまま続行する。アイザックがなにか言ってきたら、あまりにも直前で取り下げるわけにはいかなかったと答える。たとえ贋作だとしても、今更譲れない。もう調査に出す時間だってないんだから」
香織は顔を上げ、美紅を睨んだ。表情を変えない美紅に、こうつづける。「もしかして冬城さんは、今この場に社長がいればいいのにって思ってるんじゃない? 社長なら私の意見なんてねじ伏せて話をまとめられるから」
図星ではないか、と凜太郎の心臓が跳ねた。しかし美紅は穏やかに答える。
「いいえ」
「そうかしら? 社長だったら、いつも冬城さんの意見を重視するもの。たとえ私が正しいことを主張してもね。だから私の努力は見過ごされてきた。東オクのそういうところが私はずっと気に食わなかったし、この先、会社の命取りになるでしょうね。そうよ、潰れてから後悔しても遅いのよ」
美紅は反論しなかった。
「じゃ、変更はなしってことで」
香織は言い捨てると、美紅と凜太郎を置いて会議室を出ていった。
(第34回につづく)