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第四章 破壊からはじまる

 会議室から出た凜太郎は、女性スタッフの宇垣香織から呼びとめられた。三十代後半のセールス担当者である香織は、美術史の知識も豊富で、専門は西洋近代美術であり、とくにピカソに詳しい。今回のオークションでも、ピカソが晩年につくった素焼きの壺を担当している。
 ピカソはおびただしい数の絵を残しているが、同じく、晩年には大量の陶芸品を制作したことでも知られ、そのほとんどに絵画作品によく似たタッチの絵付けが施されている。今回の一点は、壺のふくらみを女性の身体のラインに見立て、表情や手足が黒い釉薬で表現されている。高さ三十センチほどと比較的小さいが、落札予想額は一千万円を超える。
「小洗くん。今日、私の代わりに、ピカソの壺を見せてほしい顧客がいるの。飛行機の関係で到着がギリギリになってしまうらしくて、私は他の顧客への対応が入ってしまっているから、頼めないかしら?」
「ロンドンの美術館の人でしたっけ」
 今の打ち合わせで、香織からは、ロンドンにある近現代美術館のキュレーターが、ピカソの壺に興味を持っていると報告があった。
「ええ。そのキュレーターとは、長い付き合いでね。私がまだイギリス在住で、一般企業を辞めてアートを学び直した頃からの関係なのよ。実物をちゃんと見て判断するまでは入札するかどうかを決めないポリシーらしいから、しっかりと対応してもらえる?」
「わかりました」
「頼んだわよ」と、香織はクリアフレームの洒落た眼鏡越しにこちらを見据える。彼女のトレードマークである、細かくウェーブする個性的な髪型によく似あっている。「今回のピカソの壺は落札予想額も控えめにつけているけれど、記録を更新できる可能性を秘めた今日の注目作だと私は思っているの」
 香織は三年ほど前に、同じくピカソの絵画作品で東オクの史上最高落札額を記録した実績がある。前職が金融系だったこともあり、大口のコレクターとの人脈も広く、優秀な働きぶりを発揮していた。
「ところで……冬城さんは今回の作品について、なにか言ってた?」
「なにかって?」
 凜太郎が思わず訊き返すと、香織は打って変わって、気まずそうに目を泳がせた。
「ううん、なんでもない」
 代理で対応してほしいというお願いも、よく考えれば、美紅ではなくあえて凜太郎に声をかけてきたのは意図的だろう。東オクのセールス担当のエース的存在である香織は、じつは美紅を嫌っていると何人かのスタッフから聞いたことがあった。
 香織の本心はわからないが、オークションハウスは同僚であっても時に作品や顧客の予算を奪いあう競争社会であり、軋轢もたびたび生まれる。ましてや二人とも華やかで気が強い自信家で、同じくらい仕事ができるのだ。
 とはいえ、美紅の方は、香織を意識している素振りを見せたことがなく、対抗意識はないように思える。かえってその余裕が、香織の神経を逆なでするのかもしれない。その証拠に香織は時折こんなふうに美紅を意識した発言をするし、脇で美紅をサポートする凜太郎はたびたび香織の視線を感じていた。
「じゃ、よろしく」
 スマホの着信に笑顔で対応する香織を見送りながら、凜太郎はため息を吐く。今は社内で争っている場合じゃない。一点でも多くの作品に入札が集まり、高値で落札されてほしいのは、みんな同じなのだから。
 
 約束の時間の少し前、凜太郎がピカソ作品の前に向かうと、見知らぬ女性が食い入るようにその壺を眺めていた。
 年齢は美紅と同じくらいか、少し年下に見える。背が低いうえに、キャップ帽を目深にかぶっているので表情はわからない。地味な服装だが、かえってオークション会場では珍しく目を引く。トートバッグを神経質そうに抱え、時折人が近づくとすぐにその場を明け渡すが、また誰もいなくなると作品の前に戻っている。
 思わずしばらく様子を窺っていると、視線が合った。正面から向き合ったとき、なぜだか既視感を抱いた。あれ、以前に会った? そんな気がするが、いつどこで会ったのかは思い出せない。
 彼女の視線が、凜太郎が首から下げているスタッフ証にうつる。
 明朗さを心掛けて「こんにちは」と声をかけると、彼女は遠慮がちに頭を下げた。
「僕はここのスタッフなので、ご不明な点があればおっしゃってください」
 彼女はかすかに目を見開いたあと、決心したように質問してくる。
「あの、この作品なんですけど……入札の問い合わせってありますか?」
「ございますし、今日の注目作になります。状態のいい良作なうえ、なんといってもピカソですから」
 笑顔で答え、凜太郎は改めてピカソの壺を眺める。
 表立って口に出さないが、じつは凜太郎は、これまでピカソの絵画を見ると、感動するよりも先に圧倒された。ピカソは信じられない数の作品を残したのだから、精力的ですごいと感心するが、もっと繊細な作風の方が個人的に好みだった。美術史を少し齧れば明らかなように、ピカソはさまざまな様式や画風をアレンジして作品を大量生産していた。しかも、若い頃に残したすでに完璧なデッサンを見ると、有り余る才能にただ感服するしかない。
 その点、このピカソの壺は静かというか、どこか例外的な感じがして、天才ピカソにもそんな面があるのだな、と自分のような凡人には安心できるのだ。
「ご興味を持ってくださっているんですね?」
「あ、はい。ただ、私にはとても手の届かない値段なので、入札したいとかじゃないんですけど……もし欲しい人が他にいなかったら、手に入ることもあるのかな、なんて願望を抱いたりして」
 凜太郎はつい調子に乗って、初対面の女性にピカソについて、今日のオークションについて、あれこれと解説した。神妙な顔つきでピカソの壺を鑑賞している女性は、ずいぶんと魅了されているようだ。
 だが、いつまでも曖昧で暗い雰囲気に、なにかが引っかかる。たいていの客は、入札予定があってもなくても、作品の話をすると楽しそうにしてくれる。「私は小洗と申します」と改めて名刺を渡すが、相手は丁寧にお辞儀を返しつつも、名乗りはしなかった。あれ、この作品について知りたいわけじゃないのだろうか──。

 

                        (第28回につづく)