最初から読む
 

 第二章 サラリーマン・コレクター(承前)
 
 
 *
 
 安村は内覧会の入口で、妻の佳代子かよこを待った。
 約束の時間ぴったりに現れた佳代子は、普段休日を過ごす通りの地味な普段着だった。デザインよりも安さと丈夫さを重視したトレーナーにジーンズという服装は、飽きるほど目にしたコーディネートである。せっかく綺麗な肌と髪を持っているのだから着飾ればここにいる誰よりもきれいなのに。
「あなた、相変わらず成金みたいな恰好ね」
 いきなりそう言われ、安村は憤慨する。
「ひどい言い方だな」
「あら、ごめんなさい。自覚なかった?」
 苛立ちを抑えながら、準備していた台詞を口にする。
「今日はわざわざ来てくれて、ありがとう」
 最近、佳代子は娘とともに実家に頻繁に通っている。都内にあるので自宅からも近く、高齢になった両親を手伝うために仕方ないというが、佳代子はわざと避けている気がする。今日も彼女は実家からここに来ていた。
「で、作品はどこ?」
「こっちだよ」
 藍上の作品は巨大なので、会場の奥まったところに展示されていても十分強い存在感を放っていて、安村は誇らしくなる。
「もっと目立つところに展示してもらえないの? 目玉作品なんでしょ」
 こういう反応がつくづく嫌になる、と安村は思った。
 この作品を購入後、長らく美術品用の倉庫に保管していたので、妻がこの大作を目にしたことは数えるほどしかないはずだ。しっかり展示されている様子を見るのははじめてのはずである。作品を見た感想とか、夫に言うべきことは他に沢山あるんじゃないのか。
「そういう問題じゃないんだよ。ここで入札する人たちは、量販店で気軽にショッピングをする輩とはわけが違うんだ。事前に送られたカタログで目星をつけて、最後に実物を確認するためにここに足を運ぶ。だから場所なんてたいした問題じゃない。誰がいつつくったかが大事なんだ」
「ふうん」
 佳代子は興味のなさそうな顔で、まわりの来場者を遠慮なく眺める。
 自分たち夫婦よりも明らかに所得の高そうな人たちばかりだ。とはいえ、本当のところはわからない。安村自身もサラリーマンらしさは全然なく、一応オーダーメイドのスーツ姿だった。
 ふと、出会い頭に「成金みたい」と言われたことが脳裏をよぎる。
 こちらに言わせれば、佳代子の方がこういう場に適さない服装だ。去年、機嫌をとるためにハイブランドのワンピースを奮発したのに、一度も着てくれていない。
「いくらで売れそう?」
 ほら来た、すぐに金の話だ──。
「予想落札額は五百万だけど、藍上さんの人気はうなぎのぼりだから一千万円くらいになるんじゃないかな。すごいだろ? 買ったときは二十三万円だぞ? やっぱり俺は間違ってなかったんだ!」
「なんだか信じられない話ね」
 佳代子は気のない返事をした。
 たしかに安村自身にも信じられない話ではあった。
 誰にも語っていないが、そもそも十三年前にこの作品を買ったときは、まったくの半信半疑だったからだ。さきほど小洗という東オクの若い社員に、さも審美眼のあるコレクターのように振る舞ってしまったのも大口を叩いただけだ。
 あのとき作品に惹かれはしたが、じつはかなり悩んだ。二十三万円という金額は決して安くはないものの、そのくらいの高級腕時計を買う人はいるし、ゴルフやアウトドアが趣味だという人なら簡単に使う額だろう。けれど、安村がその規模の買い物をするのは稀で、銀行で振込を終えた直後に後悔したほどだった。
 しかし作品を購入したあと徐々に、アート収集の魅力に囚われた。
 まず、食事の接待やら展覧会の招待やら、生まれてはじめて「特別な人」扱いをされたのである。ギャラリーやアートフェアを訪れるうちに顔見知りが増え、優雅な上流社会の仲間入りをした気分になった。なにより「サラリーマン・コレクター」という肩書きは、ただの社長や金持ちよりも価値があるように思えて誇らしかった。
 庶民でありながら、アートに理解と愛があって、少ない予算のなかでも素晴らしい作品を買っていく男──。
 いつの間にか膨らんだイメージに追いつくために、安村は作品をつぎつぎに購入するようになった。手を出すのは五十万円以下だけというルールを決めていたが、運よく購入後にそのアーティストの人気が高まるということが何度かあった。それを売って資金を回すようになり、どんどん引っこみがつかなくなった。
 ──安村さんには作品の価値を見抜く目がありますね。
 他のコレクターから言われたとき、安村は舞いあがった。
 そうだ、自分は昔から人に尊敬されたかったのだ──。
 それまで長らく経理課である職場と、家とを往復するだけの冴えない毎日だった。中年になってからは目立たないうえに“使えないおじさん”として職場で煙たがられることもあった。そもそも安村は地方出身の苦学生だった頃、バブルで華やかなお金の使い方をしている金持ちの同級生がとにかく羨ましかった。無意識のうちに、自分は青春を謳歌できなかったというコンプレックスを抱いていた。
 サラリーマン・コレクターとして名声を得られれば、自分を軽んじた同僚や同級生を見返せるような気がしたのだ。実際ここ五年ほどでテレビや雑誌での露出も増え、昔の知人から久しぶりに連絡が来ることも何回かあった。
 しかし、佳代子はいっこうに敬意を払ってくれない。
 敬意どころか喧嘩が増え、今では別居に近い状況である。安村は佳代子の気持ちがわからない。夫が注目されて嬉しくないのか。生活費には手をつけずにきちんと渡している。もしや夫の成功を嫉妬している? いや、妻はそんな女性ではなかったはずだ。
 気を取り直して、となりにいる佳代子に優しく声をかける。
「この藍上さんの作品は、君のために売りにだしたようなもんだよ」
「口先ではなんとでも言えるわよね」
「落札額はそっくり君に渡すから!」
 さぞかし喜ぶだろうと思ったのに、佳代子は無表情のまま黙っている。
 気まずい空気を持て余していると、「サラリーマン・コレクターの方ですよね?」と見知らぬ来場者から声をかけられる。若い男女二人組で、世代も雰囲気もどことなく小洗に似ている。彼らは安村のことを「先日テレビで拝見しました、写真撮ってもいいですか」と芸能人のように接してくる。
「ええ、ありがとうございます」
 さすがに少しは見直してくれるかと思って得意げに様子を窺うが、佳代子から冷たい視線を送られてたちまち居心地が悪くなる。
 二人組の対応を終え、安村は佳代子に言う。
「不満そうな顔だね」
「ええ、不満よ」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれ」
「じゃあ、言わせてもらうけど、あなたは調子に乗ってる。もううんざりなのよ、アートアートって。愛想が尽きたわ」
「夫の成功が嬉しくないのか!」
「どこが成功なの? 収入が上がったわけ? 会社の給料は変わらないどころか、メディアにたくさん出たせいで、職場での肩身も狭くなったんでしょ? 上司からも遠まわしに苦言を呈されて」
「理解のない職場だ。いつ辞めてもいい」
「なに言ってるの? あなたの基本は会社員なのよ? 辞めたら無収入になるじゃない。今みたいに若い子にチヤホヤされることが成功だと思ってるなら、勘違いもいいところだからね。テレビの出演料なんて雀の涙だし、印税だって大したことないのに、何着も高い衣装を買って」
「やっぱり金が問題なんだな? じゃあ、今回の作品が高値で売れれば、君も僕を見直してくれるね?」
 佳代子は目を逸らし、深いため息を吐いた。
「……そうなってから考えるわ」
 小洗には答えなかったが、安村が今この作品を手放すことに決めたのには、大きな理由があった。最近、妻から離婚を言い渡されたからだ。これは藍上潔の市場価値がうなぎ上りだという理由以上に大きい。
 突きつけられた離婚届に、安村は判を捺していない。まだ間に合うと思いたかった。実際こうして佳代子も会場まで来てくれたのだ。夫がしてきたことは間違っていなかったと、心のどこかで信じたいところがあるに違いない。
 だから安村は、今回のオークションはなんとしてでも成功させたかった。
「とにかく問題なのは、あなたが自分を見失っていることよ」
 佳代子はそう意味深に言い残すと「私は一人で会場を見て回るから」と、さっさと立ち去ってしまう。
 一緒に見ていかないか、という一言は呑み込んだ。

 

 (第11回につづく)