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第三章 変人と奇人(承前)

「でも……そう簡単にはいかないよ」
「いいえ、できる。少なくとも独立したときのあなたは、できたんだもの」
 水久保ははっと顔を上げて、ついに美紅の方を向くことができた。
 美紅はあのときと変わらず澄んだ瞳で、こちらを見つめていた。
 ──業界に文句があるなら、あなたが変えればいいじゃない。
 たしかにあのとき、美紅は水久保にそう言った。給料と安定した生活を得ながらも、心のどこかで自分の本当にやりたいことを見失い、会社の方針に窮屈さや歯がゆさを感じていたあの頃、心から支援したいと思える相手、コダマレイに出会った。とはいえ迷っていた水久保のことを、美紅は叱咤激励した。
 あのときの美紅の言葉が、背中を押してくれたのだ。
「私、コダマくんと水久保くんの話をしたことあるよ」
「へ? 俺のこと? いつ」と、水久保は戸惑う。
「去年ミズクボギャラリーの展示の打ち上げに呼んでもらったとき。途中からとなりの席になってさ」
 多忙な美紅は、小規模なパーティにはあまり顔を出さないが、たしかにそんなことがあったような気がする。
「コダマくんはこう言ってた。『自分にとって水久保さんは、はじめて自分のことを信じてくれた人なんです。それまで絵を正式に学んだわけでもないし、誰からも見向きもされなかった。家族にも迷惑ばかりかけて、学校もバイトも中途半端だった。でも水久保さんと出会ってはじめて、誰かのために頑張れる気がしたんです』って」
 独立後、はじめてコダマの絵が売れたときに手を取りあって喜んだ彼の笑顔が脳裏をかすめた。
「他にも『水久保さんだけは、最初に会ったときから、君には特別なものがあるってずっと言ってくれました。ときには俺以上に、俺のことを信じてくれた。そういう人って、俺にとっては水久保さんがはじめてでした。いや、今もあの人しかいない。だからあの人のためにつづけたい』、そんなふうに言ってたよ」
 美紅は淡々とした口調で、カウンターの向こうを見ながらつづける。「とはいえ、私も心配になって訊いたのよ。そんな水久保さんのギャラリストとしての手腕について不安はないのって」
「そんなこと聞いたのか? 失礼だな!」
「でも自覚してるんでしょ?」
 美紅は笑い、水久保は項垂れて「たしかに」と小さな声で答えた。
「ただね、コダマくんはこう答えた。『実力不足なのは自分も同じ。だからこそ、自分はあの人が望む限り、苦楽を共にしたい』って」
 あの人が望む限り──それなのに、自分からコダマに辞めろと言ってしまった。どうしてあんな馬鹿なことを言ってしまったんだろう。激しい後悔に襲われるが、もう時を戻すことも、発言を消すこともできない。つぎの瞬間、どうしてではなくどうやってを考えなさい、という美紅の言葉が降ってきた。
「まだ間に合う。オークションはまだ終わってない」
 そう断言する美紅は、ちょうど背後に照明があるせいで、後光を背負っているように神々しかった。
「そうかな?」
「ダリの言葉、思い出して」
 水久保がコダマを誘ったときに引用した言葉が頭をよぎる。いつだったか、その話を美紅にもしたことがあった。
「詩人っていうのは、私たちのことよ。オークションハウスも上質なワイン造りの一役を担っている。だから、信頼してほしい」
 もしかすると、美紅は知っているのかもしれない。裏でサクラを計画していることも水久保が葛藤していることも含めて、あえてはっきりとは口に出さず、それを止めようとしているのかも──。そんな考えが頭をかすめたとたん、罪悪感と感謝が押し寄せて胸が一杯になる。
 こんなことは間違っている。中国人コーディネーターに連絡をして、計画は白紙に戻すと伝えよう。なにより、コダマにギャラリーを辞めないでほしい、一緒に頑張りたいと頭を下げよう。謝ろう。
 スマホを出して操作すると、SNSのアイコンに未確認メッセージを表すバッジがついていた。確認しそびれていたらしい。
 今更タップすると、コダマからだった。十八時頃、ライ・リーと会う前、ギャラリーで慌ただしく来客対応をしていた頃に届いていた。
[お疲れさまです。今日ギャラリーの倉庫を確認させてもらえますか? じつは昔の絵を一点探していて。水久保さんの肖像画なんですけど(笑)、家になくて、大切な絵だから心配で、そちらの倉庫にあるでしょうか? 今日の水久保さんは忙しそうなので、アシスタントの子たちに立ち会ってもらいますね。そうだ、オープニングではありがとうございました。少しは休んでください]
 このメッセージを読んでいたら、あんなふうにコダマを叱らなかった。
 今すぐ謝らなきゃいけない。
[コダマ、今メッセージを見たよ。さっきは頭ごなしに怒って申し訳なかった。もう一度会ってゆっくり話せないだろうか?]
 そこまで打って送信したとき、丼が運ばれてきた。
「お待たせしました! ラーメン二丁」
 テーブルの上に、とんこつラーメンの鉢が二つ並べられた。鉢をテーブルの上に置いてから、手を合わせ「いただきます」と箸を割る。レンゲでスープを一口すする。あたたかい。美味しい。鼻の奥がつんとして、涙をこらえる。
 ふり返れば、今日はいろんなことが起こって、ほとんどなにも食べていなかった。自分の不甲斐なさに打ちのめされるばかり、空腹さえ感じていなかった。けれど、ラーメンを食べていると、限界まで腹が減っていたことに気がつく。
 とんこつのスープは味わい深いのにあっさりして、空っぽの胃袋にも優しかった。やっぱりここのラーメンはうまい。美紅の気遣いを感じつつ、視野が狭くなり雁字搦めになっていた心がほぐされた。
 それから水久保は黙ったまま、ラーメンを余さず平らげた。会計を終えてから、店の前で「ありがとう」と美紅に伝える。
「頑張りなさい」
 とても同い年とは思えない一本筋の通った相手に、水久保は「はい、頑張ります」と答えた。まだなにひとつ解決したわけではないが、海沿いの夜景に去っていく美紅の姿を見送っていると、自らの手に熱と力が戻っていくのを感じた。
 そのとき、スマホが震えた。
 コダマから一通のメッセージが届いている。アプリを起動させる間ももどかしく確認すると、こんな一行が目に飛びこんできた。
[僕は、ミズクボギャラリーを辞めます]

 

                        (第三章・了/第26回につづく)