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第五章 オークション(承前)

 それまで戦いを見守りながら静まり返っていた会場で、歓声が起こった。札を挙げたのは誰かと、身を乗り出している来場者もいる。しかし水久保には、瞬時にその正体がわかった。ライ・リーが手配したサクラである。
「ご婦人より、八百五十万円!」
 なにも知らない桜井は、口を真一文字に結んで再び手を挙げた。
 しかし当然、スーツ姿の男性は譲らず、すかさず金額を吊り上げる。
「九百五十万の入札がありました。つぎは一千万円になります。いかがでしょうか?」
 さすがの桜井も、予算を三百万も上回る金額を、そう簡単に決断することはできないようだ。実際、桜井は微動だにせず、頬を紅潮させながら、栗林社長を睨んでいる。栗林社長の額にも、汗が滲んでいた。
 どうか、諦めてくれないだろうか──。
 水久保は痛いほど両手を組んで、桜井が札を挙げないことを祈った。そうなれば、サクラの業者は失敗したことになり、水久保にもある程度の損害は生じるが、桜井は不当な額を支払わずに済む。
 しかし願いも虚しく、桜井が人差し指を挙げた。入札の合図だった。
「一千万。そちらのご婦人から、入札がありました」
 栗林社長はなぜか深刻そうな口調でそう言い放った一方で、会場はこの日一番の大盛り上がりを見せる。拍手喝采がわっと起こるが、桜井はすでに今の判断の正しさを疑っているのか、青ざめて暗い表情だった。
 そのとき、スーツ姿の男性が一瞬、にやりと笑うのがわかった。彼はゆっくりと首を左右に振って、競りから降りることを栗林社長に伝える。自分の仕事は終わった、とサクラは判断したのだ。
 全身から汗が吹き出し、手の震えが止まらなくなる。叫びだしたい衝動にかられるが、口がカラカラに乾いていた。これは怒りなのだと気が付くのに、時間はかからなかった。そう、水久保は、激しい怒りに駆られていた。
「では、よろしいですね? 一千万円で、そちらのご婦人の落札になります──」
 水久保は今ここで、どうにかする方法を必死に考えた。もし計画がバレたら、桜井はミズクボギャラリーを訴えるかもしれない。それに間違いなく、コダマからの信頼を完全に失うだろう。せっかく仲直りしかけたのに。
 水久保は頭をフル回転させて、自分がすべきことを考えた。
 どうやったら止められるか。
「待ってください!」
 驚いたことに、声を張り上げたのは、自分自身だった。その右手は、高らかに天へ伸びている。汗がぽたりと顎から落ちた。
「一千五十万!」と、水久保は叫んだ。
 会場は、混乱を孕んだどよめきに包まれる。
「えっ、ちょっと、水久保さん、正気ですか? せっかく桜井さんが高値で落札してくれそうだったのに」
 アシスタントが腕をつかんで訴えるのも、水久保は構わなかった。
 目を丸くしている栗林社長に向かって、手を挙げつづける。ふり返った桜井が、目を見開いて「どういうこと?」と困惑している。
 予定していなかった入札なので、水久保は番号が書かれた札さえ持っておらず、東オクのスタッフが慌てて近づいてくる。札を受けとり、正式に栗林社長に見せてから、水久保は言い放つ。
「コダマの作品の価値を証明するのは、僕だ!」
 騒然としていた会場は、水を打ったように静まり返った。
 スーツ姿の男性はわけがわからないという感じで、ぎこちなく札を挙げる。その視線の先には、困惑した様子のライ・リーがいた。
「一千百万円!」と、社長。
「一千百五十万!」と、すかさずかぶせる。
 何度入札されても、絶対に食らいつく。心は固く決まっていた。
 ライ・リーが席を立つのが見えた。スーツ姿の男性も首を左右にふる。
 勝負は決まった──。
 栗林社長が咳払いをして、「ええ、では、一千百五十万、そちらの男性でよろしいですね?」と高らかに告げた。
 ハンマーの音が鳴るのと、「水久保さん!」というコダマの声が飛んできたのは、同時だった。
 数席離れたところにいたコダマが、席を分け入ってこちらに抱きついてくる。コダマの抱擁を受け入れながら、水久保は会場を見回す。冷静さを取り戻すうちに、自分がしたことの意味がわかってくる。出品者自らが、とんでもない高値で作品を落札したのだ。しかし、ルール違反ではないはずだ。
「手放したくなくなっただけだよ。問題ないですよね?」
 水久保は壇上にいる栗林社長に直接、大声で語りかけた。
「ええ、ご心配なく。たとえ落札者が、出品したギャラリスト本人だとしても、取引に問題はありません。もちろん、手数料はいただきますがね」
 茶目っ気のある返答の仕方に、会場が安堵の笑いに包まれ、やがて、あたたかい拍手に変わった。
「素晴らしい結果の余韻に浸りたいところですが、時間は限られています。さて、つぎの作品に行きましょう──」
 栗林社長は気を取り直すようにそうアナウンスをはじめると、来場者の関心はそちらへうつっていく。コダマは水久保から身体を離し、目を見つめながら訊ねてくる。
「本当にいいの?」
「ああ、これが僕の答えだよ。オークション会社への手数料は、君の作品価値を市場で証明するための必要経費だと考えよう」
「……ありがとう」
 こちらの手を握るコダマの目には、うっすらと涙が滲んでいた。桜井の方を見ると、彼女は顔をしかめながらも、なぜかハンカチで目頭を押さえている。スーツ姿の男性が会場から出ていくのが見えた。代わりに、目が合ったのは、会場後方の少し高いところから全体を見下ろせるVIP席にいた冬城美紅だった。美紅はこちらを満足げに眺めながら、小さく手で拍手をするジェスチャーを送ってくる。
 ふと、美紅のとなりに立つ若い女性に、見覚えがあるような気がした。たしか彼女は、富永グループの令嬢だ。今のを見て、なにか思ってくれただろうか。うちの顧客になってくれたらいいのに。
 
 *
 
 VIP席で見守っていた姫奈子は、美紅のとなりで、もらい泣きをしそうだった。
 というのも、美紅や凜太郎から、ミズクボギャラリーは経営が厳しく、所属アーティストであるコダマの《ダリの葡萄》の競りで勝負をかけているのだという事情を、少しだけ聞いていたからだ。これほど劇的な展開があるだろうか。
 美紅の横顔を見ると、穏やかな表情で水久保とコダマを見つめている。
「こうなることを予想してたの?」
 根拠のない、ただ思いつきの質問だったが、口に出したとたんに信ぴょう性を帯びる。
「まさか」と、美紅は表情を変えずに首を左右に振った。「ですが、ミズクボギャラリーはきっと立ち直る。コダマくんと一緒に。そう信じてはおりました」
 今度、ミズクボギャラリーに足を運んでみよう。コダマの作品についても、美紅にコンセプトを聞いたときに関心を持っていたので、何点か買って応援してもいい。美紅の意向に沿いすぎているようで、ちょっと悔しい部分もあるが、自分には素直さが足りないという自覚もあった。
 そう、素直になりたい──。
 その気持ちは今回、東オクの人たちと出会ったおかげで起きた変化から生まれた。悲しみや嬉しさ、誰かを思いやったり恨んだりする気持ち、すべてを誰かに預けて、素直に生きていきたい。そうすれば、むやみに自分や他人を傷つけずに済むんじゃないか。姫奈子は深呼吸をして、美紅の方を向く。
「あなたのこと、最初は全然、信じられなかったの」
 美紅は黙ったまま、視線を返してくる。
「じつは最初に会った日のパーティで、安村さんから、オークションには女神がいるって聞かされたけど、正直、はぁ?って思った。顧客の方が偉いはずでしょ、って。でもこれまで美紅さんと話したり、他の人に対応している姿を見かけたり、小洗さんや他のコレクターからも美紅さんのことを聞いたりするうちに、少しずつ私の考えも変わった」
「どんなふうに変わったのかを、お伺いしても?」
「たしかに女神がいなければ、オークションの秩序は保たれない。だからこそ、私もあなたを信じたくなった」
 姫奈子がそう告げると、美紅は深々と頭を下げた。
「光栄です」
 そのとき、ハンマーの音が鳴って、会場で拍手が起こった。いよいよウォーホルの《一九二枚の一ドル札》の入札がはじまる。壇上にあった前の作品が撤去され、巨大なカンヴァスが運びこまれる。
「では、楽しんでくださいませ」と、美紅が深く頭を下げる。
「そうね」
 姫奈子と握手を交わし、一礼をしてVIP席を去っていく美紅を見送ってから、姫奈子は改めて壇上に現れたウォーホルの大作を眺めた。ついに、このときが来てしまった。
 あなたのために、落札するわ──。
 心のなかで宣言し、姫奈子は入札パドルをぐっと握りしめた。

 

                        (第42回につづく)