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 第一章 ラブ・アンド・マネー(承前)
 
 
 澱みなく言ってのけた美紅に、凜太郎は返す言葉が見つからなかった。
「なんだか急に、自分がじつに罪深いことをしているような気がしてきました」
「遅いわね」
 そういった取りつく島もないクールな態度こそ、誰かの恨みを買うのではないか。
 社長があいだに入るように咳払いをした。
「とにかく、警察とのやりとりは任せてくれ。セールスまで猶予があるから、犯人が見つかることを祈ろう。こういう犯罪は年々増加傾向にあって愉快犯も多いようだし、中止にするつもりは現状ない」
「わかりました。なぜそんな予告をするのかを考えれば、人を殺すことではなくセールスを中止にさせることが目的に思えますしね」と、美紅は淡々と肯いて席を立とうとする。
「待ってくれ。もうひとつ、用件がある」
「なんでしょう?」
「今夜のパーティだが、冬城たちに対応してほしい顧客がいる。昨日問い合わせてきた、富永姫奈子とみながひなこという令嬢だよ」
「富永グループの?」
 すかさず美紅が訊ねると、社長は嬉しそうに「うちとははじめてだな」と答える。
 美紅と社長は、長い付き合いなので息がよく合い、お互いに信頼を寄せているようだ。どういった経緯で、美紅ほどの優秀な人材が東京オークションに勤めているのかというのは、ずっと気になっている。
「姫奈子さんは、当代社長の長女だ」
「あの、富永グループって?」と、凜太郎は遠慮がちに挙手して問う。
「日本有数の資産家一族であり、数々の大企業の株主でもある。単純に言えば、VIP中のVIPってところかしら。聞いたことないの?」
「す、すみません」
 凜太郎は両親ともに日本人だが、物心つく頃から大学卒業までずっとアメリカにいた、いわゆる帰国子女だ。英語力を買われて入社できたのだが、一方で日本の一般常識に乏しく、とくに社会人になってから、おかしいと指摘されたり、逆におかしいと感じたりすることも多い。
「令嬢は二十六歳。小洗と同世代か?」
「同い年です!」
「じゃあ、気も合うかもしれんな。令嬢はアートを買うのははじめてらしい。丁寧なサポートを頼んだ。これを機に、うちと富永グループとのご縁をつくりたい」
 美紅が黙ったまま肯くとなりで、凜太郎はわくわくを抑えられない。令嬢──なんと魅惑的な響きだろう。中流階級の家で育ったうえ、まだお金持ち相手に接客した経験は浅く、富裕層にぼんやりしたイメージしかない凛太郎は、胸をときめかせる。
「お目にかかるのが楽しみです!」
「凜ちゃん、水をさすようだけど、あまり期待しない方がいいわよ」
「えっ、どうしてです?」
「そのうちわかるわ」
 それだけ答えると、美紅は会議室を出ていった。
 
 *
 
 富永姫奈子は、パーティ会場に向かっている最中から機嫌が悪かった。
 理由はいくつかある。まず、ドレスがきつかった。
 この日着てきた薄ピンク色のワンピースは、去年から窮屈だったが、ますます身体に合わなくなっている。それでも、このワンピースを選んだのは、本来、着る予定だった新品のドレスを妹に貸しているからだ。いや、正確には、妹に勝手に持ちだされていた。
 他にも、生理前であること、化粧ノリが悪いこと、雨天で髪がまとまらないこと、さまざまな要因が重なって、姫奈子はパーティに出かけるのが億劫だった。欠席したかったが、ウォーホルの《一九二枚の一ドル札》が欲しい気持ちの方が勝った。
 タクシーがホテルのエントランスに到着する。強風のせいで雨が吹きこみ、顔に派手にかかった。姫奈子は礼も告げず、タクシーを下車する。
「富永さま、いらっしゃいませ」
 このホテルには何度も訪れたことがあるので、顔パスである。ただし姫奈子が笑顔を向けることはない。お金のある人に対して、たいていの人は親切になるが、その親切には裏があるからだ。
 エレベーターで最上階にあるレストランに向かう。
 貸し切りらしく入口のところで名前を告げると、一人の女性が現れた。
「はじめまして、冬城美紅と申します」
 美しいお辞儀をしたのは、背が高く、きりっとした顔立ちの女性だった。わずかに光沢のある上等そうな黒いスーツに身を包んだ立ち姿は、宝塚の男役を連想させる。となりに立ちたくない、と真っ先に思った。自分など、どれほど努力してもこのスタイルに敵うわけがない。
「東京オークションにお問い合わせいただき、お礼申し上げます」
「いえ。私は単に、ウォーホルの《一九二枚の一ドル札》が欲しいだけです」
 冷たく答えると、美紅のとなりに立つ男性が、小さく息を呑むのがわかった。
「もちろんでございます」と、美紅は笑顔を崩さずに答える。「こちらは、今回私とともにご対応させていただきます、小洗凜太郎です」
「よろしくお願いします」
 満面の笑みでお辞儀をした凛太郎は、自分より年下のようだ。こんなに若い人に対応されて大丈夫だろうか。もしかして、侮られている? よく見ると、うっすらとメイクをしていて、肌つやはこちらの何倍もいい。アイドルみたいな男の子だ。
「姫奈子さまのお目当ての作品の入札については、僕たちが全面的にサポートをするので安心してください」
 いきなり下の名前で呼ばれたうえ、“僕たち”という言葉遣いが気になった。美術業界というのは、ビジネス作法や礼儀にはうるさくないのか。
 表情に出たらしく、上司の美紅がすかさず凛太郎に「富永さま、でしょ? あと僕たちじゃなくて、私ども」と小声で厳しく注意し、こちらに向かって「たいへん申し訳ございません。まだ勉強中でして」と深々と頭を下げた。「す、すみません」と凜太郎もそれにつづいた。素直に反省している様子だ。
「別にいいわ、僕でも」
 姫奈子は面倒くさくなり、目を逸らしながら言った。
「本当ですか? ありがとうございます!」
 きらきらした目で見つめられると、調子が狂ってしまう。
 レストランに入っていくと、カーペットが敷かれた店内には、ワイングラスを片手に談笑する人たちで賑わっていた。いつのまにか、美紅は別のグループに声をかけられ、そちらの対応をしている。
「富永さま、お食事でもいかがですか? よければ、なにかお持ちしますよ」
 凜太郎が気を遣って、提案してくる。
 しかしドレスがきついこともあって、姫奈子には余計な気遣いだった。
「けっこうよ。ダイエット中なの」
 正直に答えてしまい、後悔する。ダイエットした結果そんな体形なのか、と内心馬鹿にされそうだからだ。しかし凜太郎は「それは失礼しました」と、両手で口元を覆った。その反応に含みは感じられなかった。
「でも、お気持ちはわかります。僕も今日のパーティのために減量していたので」
「じゃ、あなたが食べたいんじゃないの?」
「ふふっ、バレました?」
 凜太郎は頭に手をやり、楽しそうに答える。
 表情豊かかつフレンドリーで、よく気が回るけれど、どこか変わっている。女の自分よりも乙女な感じがするし、空気を読まない印象がある。こちらが嫌味を言っても、通じていなさそうなのだ。
「小洗さんは働いて長いの?」
「いえ、三年目です」
「その前は?」
「アメリカの大学に通っていました」
 爽やかな笑顔を見ながら、なるほどな、と姫奈子は納得した。通っていた女子大にも、何人かこういう手合いがいた。同時に、新卒のあと三年目ということは、案外、自分と同じくらいの年齢なのか。
 すると、しばらく別の客と話していた美紅がやって来て、こう提案する。
「せっかくですから、他のコレクターさんをご紹介させてください。みなさん、富永さまとお話ししたいそうでして」
「……いいけど」
 社交は苦手だが、姫奈子は肯いた。
 美紅はレストランの奥へと案内した。集まって談笑していたのは、長年コレクターをしている老夫婦と、アート関係の会社を運営している男性二人組。そして、サラリーマンとしてアートを収集している安村という男性だった。美紅はにこやかに一人ずつ紹介する。
 とくに、安村はこちらが富永家の娘だと知ったとたんに、上から下までじろじろと視線を浴びせてきた。
「富永家はやはり、たくさん名画をお持ちなんでしょうねぇ。お目当ての作品は、もうお決まりなんですか?」
「ええ、まぁ……」
「オークションでは、熱くならないのが肝心ですよ。最低限の手数で落とすのが理想的なやり方です。あとは、内覧会も明日以降よく下見しておくことをおススメしますね。カタログで見ていい作品だなと思っても、実物に対峙したらガッカリなんてこともよくありますから。で、ご予算はどのくらいなんです?」
 不躾な質問に、姫奈子は黙りこむ。
「おっと! こりゃ、失敬。富永家ともなれば、予算という概念はないですわな」と、安村は大袈裟に笑った。
 下品な人だな、と冷めた心で思った。こんな所にもいるとは。
 助けを求めようと、となりに立っている凜太郎の方を見る。しかしいつのまにか、凜太郎はさらにとなりの老夫婦と談笑していて、孫のように接している。美紅も、いつのまにか数メートル離れた別のグループに交じっていた。ただし凛太郎とは違い、美紅は背中に目がついているかのように、姫奈子の視線に気がつき、ふり返ってほほ笑んだ。
「オークションには、女神がいるんですよ」
 唐突に、安村の声がした。美紅を見つめている。
 面食らいながらも、姫奈子は「女神?」と訊き返す。
「はい。女神がほほ笑んだとき、作品を渡したい者と手に入れたい者とが、幸せな結びつきを果たす。一方で、女神を怒らせてしまえば、作品は売却できず、どんなに金を積んでも手に入らない」
「あの人が……冬城さんが女神ってことですか?」
「はは。そうとは言っていませんがね。まぁ、比喩みたいなものですよ。実際、美紅さんのファンは多いですが」
 なにを言っているのか、よくわからない。
 お客さまこそ神様ではないのか。今まで姫奈子は、金を払って買い物をする立場であるこちらこそが、神様なのだと信じて疑わなかった。しかしオークションの世界では、そうではないということなのか。
 きちんと対応してくれたはずの美紅に、わけもなく腹が立ってきた。いったい何様なのだろう。ずいぶんと偉そうじゃないか。
 それに、安村をはじめ他のコレクターの話を黙って聞いていると、アートの話にてんでついていけない。姫奈子は好きな作家や作品以外よく知らなかった。教養や人生経験が十分にあるわけでもない。レオナルド・ダ・ヴィンチの名画よりもレオナルド・ディカプリオの映画の方が詳しい。
 姫奈子は黙ってその場を離れた。
 早く帰りたい──。
 化粧室の鏡にうつった自分は、不機嫌そうでむくんでいて、さらに憂鬱になる。甘やかされて育ちながらも、親から愛情や関心を向けられたという自覚のない姫奈子は、わがままな一方で自己評価が低い。だから無意識のうちに、他人のことまで否定的に見てしまう癖があった。

 

 (第3回につづく)