第三章 変人と賢人
「お電話ありがとうございます。東京オークションです」
女性オペレーターの聞きやすい声がした。
今すぐ通話を切りたい衝動にかられる。すみません、間違えましたと。けれど、スマホを持つ手に力を入れ、なんとか思いとどまる。
「あの、あ、明後日のオークション、本当にあるんですか?」
質問の意図がわからなかったのか、オペレーターは数秒ほど間を置いた。
「ええ、あります。土曜日の午後二時より、東京オークションの会場にて開催する予定でございます」
明朗な答え方が、かえって不安を膨らませる。
でも爆破予告がありましたよね? 会場に集まった人たちを危険にさらしてもいいんですか?
しかしそんな質問をすれば、なぜ知っているのかと疑われるだろう。この通話は録音されているらしい。警察に届けられ声を分析されれば、正体を突きとめられる。
では、どうすればオークションを中止にできるか。今、相手になんと言えば──。
いくら考えてもわからなかった答えが、急に浮かんでくるはずがなかった。
「お客様?」
こちらが黙り込んでいるので、オペレーターが確認してくる。「このたびはどういったご用件でしょうか?」
その口調は心なしか、こちらを警戒しているように聞こえた。鼓動が速まる。
「もう結構です」
一方的に言って通話を切ると、目の前のパソコンに東オクのホームページが表示されているのが目に入った。これまでオークション中止の告知を求めて、何十回、何百回とひらいた画面である。しかしホームページでは、むしろ一人でも多くの集客とセールスの盛況を願っている。
窓口に電話をするまでは、対応が遅れているだけだと自分に言い聞かせていたが、我慢ならなくなる。なんとかしなければならない。あれだけは食い止めなければ。本当に爆破することになったとしても──。
*
午後五時頃、凜太郎は美紅とともに、ミズクボギャラリーに向かった。
ミズクボギャラリーは東京オークションと同じ有明エリアにあり、互いに徒歩圏内だった。比較的若手のアーティストを十名弱抱えた、新しく小規模なプライマリー・ギャラリーだが、東京アートウィーク中とあって、スペースには大勢の人が集まっていた。
「オープニングおめでとう、水久保くん」
丁寧に包装されたお祝いのシャンパンを美紅が手渡すと、オーナーである水久保良平は人のよさそうな笑みを浮かべて受けとる。オーナーといっても、水久保はまだ三十代半ばで、ギャラリストとして独立して五年目だった。洗練された細身のダークスーツを着こなしつつ誰に対しても腰が低い。美紅とは同世代とあって、普段からよく食事に出かけたり情報を交換したりと仲が良いらしい。
「盛況ね」
「おかげさまで、コダマの作品がSNSで話題になってるみたいで」
水久保は嬉しそうに頭に手をやった。
二十八歳の新進気鋭アーティストであるコダマレイは、ミズクボギャラリーが方々に売り出し中の一人だ。
「コダマにとっても自信のある展示なんだって」
壁にかけられた絵は、一貫して「人」をモチーフにしている。メディアでよく見かけるセレブやタレントもいれば、教科書に載っている歴史上の偉人や政治家の他、ピカソやウォーホルといった芸術家の顔もずらりと並んでいる。ただし、どれも荒々しく原色を用いた筆致で歪められ、記憶のなかのイメージのように曖昧だ。なかでも美術史の巨匠の顔を引用するシリーズは、大売れとは言わないが徐々に注目が集まっており、市場価格にも反映されはじめていた。
「例の《ダリの葡萄》も、問い合わせも集まってるのよ」
今回、水久保が個人名義で東京オークションに出品するコダマの《ダリの葡萄》は、その名の通り、ダリの肖像画だ。デフォルメされながらも、撥ね上がった長い口髭とぎょろりとした目がダリの特徴をとらえた一枚である。
もともと水久保が独立する前にコダマから直接購入したもので、満を持して、東オクから競売にかけられることになった。予想落札額は五百万円だが、国内外でコダマのファンが増えている今、もっと高くなるかもしれない。
「当時、僕はあの《ダリの葡萄》をコダマから五十万円で買ったんだ。コダマの生活費の足しになればと思ってね。それをきっかけにうちの所属になってもらった。だから僕たちにとっても、コダマのキャリアにおいても、重要な一枚なんだよ。自分の利益のためというより、コダマにもっと有力なアーティストになってほしいし、うちのスタッフにも還元していきたいから」
水久保は真剣な口調で、美紅に訴えた。
「最善を尽くすわ」
「頼むよ、美紅さん」
水久保は拝むように頭を下げた。
その態度には、ただならぬ切実さがあった。しかし凜太郎がなにか口を挟む前に「小洗くんも元気そうだね」と、水久保はこちらに声をかけてくる。
「美紅さんのアシスタントは忙しいんじゃない?」
「いえいえ、勉強させてもらっています」と、凜太郎はかぶりを振ってから、展示室を見回し伝える。「本当にすばらしい展覧会ですね。僕、コダマレイさんの作品は学生時代からずっと拝見していて。とくに今のお話は感動しました。ギャラリストとアーティストの関係っていいなって」
「ありがとう」と、水久保は照れくさそうに笑う。
「御社の所属アーティストって、他にも魅力的な方が多いじゃないですか。ギャラリストって見る目が一番大事なんだなって実感します」
「そう言ってもらえると嬉しいけど……」
頭に手をやりながら、なぜか水久保の顔が曇った。
あれ、失言してしまっただろうか──。
しかし水久保はすぐに明朗な調子に戻って言う。
「たしかにうちでは、僕自身も買いたいと思ったアーティストしか扱ってないんだ。運命を共にするだけの覚悟がないとね」
そのとき、水久保のアシスタントが近づいてきて、彼に耳打ちをした。作品についての問い合わせがあったようだ。笑顔でアシスタントと歩いていく水久保の姿を、凜太郎は見送った。